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古代における「板材」の価値についての妄想?

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川の博物館の特別展「埼玉圏の原始・古代人-人の動きをモノから探る-」を見てきました。http://www.river-museum.jp/exhibition/plan/post.html

特別講演も聴講させていただきました。

「埼玉の古墳とか埴輪から判る古代の技術、技術者の流れをさぐるお話」、「古墳で発掘される陶器のお話」、そして「古代の港の跡と考えられる遺跡についてと古代の河川交通についてのおはなし」

内容は専門的でしたが色々と興味深かったです。

展示物および講演の中で古代の和船の発達の段階についての説明(展示)がありました。

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縄文時代の船の形態は丸木舟(くり舟、うち側を刳り貫いたふね)ですが、古墳時代には、準構造船という中間的な形態の舟があり、それがいつごろから部材を組み合わせて形づくる構造船となるわけです。

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構造船を可能にする技術は何かな?

それは均一な厚みの平板をつくりだす技術、道具的には縦ひきノコギリが重要なのかな?

丸太から板材を切り出す(製材する)技術がなかったら、精密な加工が必要な構造船は出来ないわけで、それを可能にするノコギリ(大鋸:おが)というものがない間は、くりぬき舟とか、それを延長した準構造船しか作れなかったんだろうな~ とかボンヤリ考えていました。

もしかしたら、ノコギリによって、「板」を加工できるという技術は、画期的な(当時の)近代技術だったのかもしれない?

ノコギリはもちろん鉄を使った道具ですが、剣とか斧とかは、石斧などの磨製石器などで(効率は相当悪いですが)代用ができるかもしれないが、ノコギリについては・・・・当時の最高の技術だったのかもしれない。

古代の遺跡から、あるいは古代の建造物に、 平たく薄い板材が使われているのをみかけたら、その背景に木工加工技術とそれを可能にする大工道具の伝播、製鉄(鍛冶)技術の伝播を読み取り、驚きと感動をもって注目すべきかもしません♪

以上、素人の勝手な推測です^^)

ネットで調べたところでは、大鋸(おが)という縦ひき鋸によって丸太から板材を切り出すようになったのは、かなり時代が下ってからのようでした。

板材は、建築材料としては、「床」として使われることを考えると、縄文時代からの伝統的な住居の形式である竪穴住居(柱を地面に立てて、土間に寝起きする暮らし)から高床式の住居に変わるためには丸太から板材を作り出す技(道具)が必須であったと思われます。

ノコギリがない場合の板材の加工(製造)は、釿(チョウナ)という道具によって不要な部分を削り取ることによって対応していたようです。その技術は仏教寺院の建造のために招かれた百済の工人によってもたらされたようです。

金剛組という世界でもっとも古い創業の会社が日本に存在しますがその設立の由来は、聖徳太子が百済より招いた建築技師の金剛重光に由来するとのことです。それで、聖徳太子は政治家としての顔とは別に技術者としての顔があるようで、現代においてもお宮大工、船大工などのお祭り?において太子講というかたちで尊ばれているようです。

とりとめのない話となってきましたが以下はネット検索でみつけた関連情報です^^

・国宝建築にみられる木材加工技術(昔は木を割っていたということ) http://www.asahi-net.or.jp/~hf2t-nkn/jcom/kokuho3.html#warizai

 ~ 日本では横挽き鋸は古くから使われていたが,縦挽き鋸が用いられるようになったのは室町時代以降というから、それまでは木材はほとんど楔で割って用いられたのであろう。中国や朝鮮ではもっと前から縦挽き鋸が使われていたというが日本ではどうして使われなかったのだろうか。それは日本にはスギやヒノキという容易に、しかも縦に真っ直ぐに割れ易い木があり、割って製材した方が簡単で、あえて縦挽き鋸を使う必要が無かったとされている。木材を割る製材法は繊維に沿って割れるので、繊維を時として切断してしまう鋸による製材法よりも確かに木材の性質を生かして上手に使うことにつながる。しかし室町時代に入り、真っ直ぐに割れる木材が少なくなるとさすがに楔で割る製材だけではどうしようもなくなり、縦挽き鋸が使われるようになってきたわけである。 ~

・埋もれた文化財の話 http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/buried_cultural/story/24/

 ~鋸には横挽き鋸と、縦挽き鋸とがあります。わが国では、少なくとも13世紀頃までは、縦挽き鋸は存在しませんでした。そのため板材や角材を必要とするときは、伐採した木材に、鑿で何カ所もの穴を穿ち、その穴に木の楔を木槌で打ち込んで割っていました。板にする場合は、その割り材をさらに何度も割り、必要な厚さになると、木の表面を手斧ではつって仕上げました。このような製材法では、当然ながら一本の丸太から得られる板材や角材は限られていた上、厚さや太さにも限界がありました。しかも、このような方法で板材や角材を得られる樹木は、ヒノキやスギなど木目の通った良材に限られていました。しかし、13世紀以降になると、ヒノキやスギの良材が少なくなるにもかかわらず、都市の拡大に伴う住宅建築の増大によって板材や角材の需要は増える一方でした。そこで、針葉樹や広葉樹を問わず、どんな木材でも思いのままの柱材や板材・角材を得ることができる、2人挽きの縦挽き鋸「大鋸」が、中国から移入されました。この大鋸は、2人で挽くため、中央で鋸の目の方向が異なっていました。しかし、大鋸は、引き手2人の呼吸を合わすのが難しいうえ、きわめて高価であったらしく、それほど普及しなかったようです。~

・鋸の話 http://www.hand-made-home.com/daiku/daikus/nokogiri2/nokogiri2.html

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~ この一人挽の框鋸を大型化したものが二人挽の「大鋸」と呼ばれる縦挽鋸である。大鋸が大陸から我が国に伝えられたのは室町中期(1400年)前後とされている。この二人挽の大鋸を「框付縦挽製材鋸」と呼んでいる。この大鋸が現れるまで、我が国には大型の縦挽鋸はなく、大きな丸太材を楔や大きな割鉈で打ち割って、建築用材を得ていた。その方式を「打ち割り法」と呼んでいる。その打ち割り方式では材の無駄が多く、打ち割った木面を釿やヤリガンナで仕上げるのに大工は大変に苦労していた。しかし、打ち割る良材も乏しくなってきた矢先、大鋸が現れたのである。それまで、打ち割ることができなかった松材や欅材の木取が可能となり、堂宮建築の木工事が一躍向上したのである。
 大鋸がどのような経路で我が国に伝えられたのかは今もって不明である。 ~

・釿(チョウナ)の話 http://www.hand-made-home.com/daiku/daikus/cyouna4/cyouna4.html

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 ~ 私は大工に弟子入りして、半年を過ぎても釿はつりが上達せず、毎日兄弟子にからかわれ、何とか上達する手立てはないものかと思案の毎日でした。十二月三十日、親方が今日は「釿仕舞い」だというので、仕事場を清掃し整理整頓し、親方の大工道具をはじめ、すべての道具を油拭し、墨壺は墨池の墨綿を洗い清めて寒の水で溶かした削り墨の墨液を入れて親方に手渡しました。親方は釿刃を研ぎ澄まして、見事な曲がりの柄を仕込み、指金、墨壺、墨指、釿を三宝にのせて、御神酒と共に床の間に供え、掛軸は聖徳太子が指金を持ったお姿のものが掛けられ、正月の準備を手伝いました。太子の前に供えられた親方の釿を見た時、その美しさに感激しそのような釿を新調すれば上手にはつりが出来るのではないかと考えたのでした。 ・・中略・・ 「式神さんというのは、古い古い昔のこと百済の国(今の韓国)より多くの優秀な建築技術者(工人)が我が国に招かれました。その当時の日本の工人は堀立柱の建築方式でしたが、渡来した工人たちが建立しようとする建物は礎石の上に柱を立てるという新しい方式でしたので日本の工人たちは驚いたのでした。渡来した時、彼等の道具箱の中には見事な大工道具が一杯に詰っていました。日本の土地にも言葉にもなじみ、理解できるようになり、日本の工人たちは彼等の指揮のもと、真新しい工法の建物を手懸けたのでした。しかし残念なことに彼等が百済から持参した大工道具が一つ減り二つ減りと紛失していきました。無断で借りた日本の工人たちは、その道具を正目手本として刃物は鍛冶屋に鍛えさせ、木の部分は自分が作り、正目手本とした道具より遙かに見事なものを次々と作り上げて行きました。しかし驚いたことに、無断で借りていた大工道具は複製されると、いつの間にか渡来した工人のもとにきっちりと返されていたのです。それを百済の工人は少しも驚きませんでした。驚いたのは日本の工人たちでした。無断で借りたことを深く詫びて複製したことを伝え、それからお互いの交流が始まり、『規矩の技』も教えてもらったのだろう」と島棟梁は話を続けました。 ~

・現代の木挽き(大鋸の名人)の話 http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Ivory/2387/Kikigaki/Oga.htm

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 ~木挽き体験前の、参加者との懇談のときだけは、名人から柔和な「じいちゃん」の顔になった… が、参加者による木挽き体験が始まると、すぐに職人の顔に戻った ~

・大王のひつぎ:実験航海(古代船 海王) http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/ 

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 ~ 「倭の五王」から、九州の磐井の乱を経て、飛鳥文化が花開く推古女帝の時代(5~7世紀)に、大和の大王(天皇)陵や特定豪族の石のひつぎが熊本・宇土半島産の阿蘇のピンク石で造られ運ばれたという。この古代史上の謎に、考古学、古代史、海事史研究者が復元古代船「海王」で挑む実験航海が行われた。

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 2005年7月24日、宇土市を出航、有明海から北部九州沿岸、瀬戸内海を経て、34日目の8月26日、最終目的地の大阪南港に到着した。総航行距離は1006キロ。古代航海の実像を示す貴重な記録が残され、多くの成果が得られた。 ~

ところで日本の木材加工(宮大工、船大工、etc)を大きく進化させるきかけとなった聖徳太子の建立した四天王寺。そのきっかけは物部と蘇我の戦いの最中に戦況不利の中で「ぬるで」の木から四天王像を彫って祈ったときの誓願に由来するらしいです。

あれ? どっかで聞いた話だなぁ・・・ (あのマンガだ! 笑)

去年、ベニヤ板でカヌーを自作したわけですが、非常に薄く均一の板材を使用して制作されているので、あれも一種の構造船ということで、船の歴史からみると非常に近代的な??? 苦笑)

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