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ヤマトの「武」の情景 (8)

後のヤマトの「武」であるところの16歳のオグナ君、九州の賊の征伐に派遣される前に、15歳にして東北地方、蝦夷地の視察に派遣されます。

この視察の記事は「武」ウチノスクネとしてサラリと書かれている為に見過ごされていますが、実は大きな意味をもち、後のヤマトの「武」を考えるうえで重要な出来事である・・・かもしれません。 

蝦夷地の視察の記事については、九州の賊である熊襲タケル(川上タケル?)退治によるヤマト「武」命名のエピソードとの関連性という視点でとらえることはありません。
あまり注目されることのない記事です。別人として書かれた記事ですので当然といえば当然ですが、「武」ウチノスクネ=ヤマトの「武」 の前提に立って、一人の青年(少年)の記事として考えるときに、新たなストーリーが透けて見えてきます。

九州の賊の征伐に大成功して、それまで何の実績もなかった無名の少年(皇子)が、あたらしい尊称であるヤマトの「武」を手に入れ、これがあってはじめて東国の蝦夷討伐の遠征が実現した、許可された、というようにも見ることができます。

そろそろ?古代史の妄想モードに突入です ^^;

景行天皇(父親)から派遣された東北地方(蝦夷地)視察の旅から帰還した(「武」ウチノスクネとして記述された)少年オグナ君は、東北地方の遠征を進言したと言われます。

実際にヤマトの「武」(こと「武」ウチノスクネ)が東国に遠征するのは少し後で、その前に九州の賊の征伐を命じられました。

東北地方の視察が朝廷からの正式なものであるとすると、蝦夷征伐を進言した場についても公式な朝議の場、多くの氏族長の参列するような会議の場であり、その中心に父親でもある景行天皇も臨席していたかと思われます。

その公式な会議の場で、皇子とはいえ、何の実績のない少年が「蝦夷地への進軍、派兵」を進言したとしても、どれほどの説得力があったことか?

説得力がない? まともに取り扱われなかった・・・という状況があったかもしれません。

九州の賊の征伐、ヤマト「武」の尊称の獲得を通じて、東国への蝦夷成敗の許可を得た?と考えることも可能です。

もしかしたら、九州での出来事は、朝議の場で、東国派兵の進言に対して否定的であった部族長、大伴氏、物部氏らの重鎮達を説得するための布石として、なんの実績もなかった若者であったオグナ君に課せられた任命試験だった?

また、ここでもう一点

ヤマトの「武」の 「武」を号するきっかけの頼りなさ?
敵のボスから貰った? 若干の違和感を覚えます。^^;

川上タケル(熊襲タケル?)から「今後、ヤマトの「武」を名乗るように言われたエピソードについては、記紀編者(藤原不比等)の作為を疑っています。

蘇我氏、物部氏といった大豪族の権威を落としたい。あらゆる手をつかって蘇我氏の権威(蘇我の祖であるヤマトの武の権威)を低くしたい・・・

反乱軍(土蜘蛛?)の親玉から薦められた尊称の「武」・・・ちっとも有り難くない?^^;

「武」という尊称については、倭国の古来からの伝統的な尊称であり、勇猛果敢な武将のみが名乗っています。

タケミカヅチ(日向の勇猛果敢な武将)
タケミナカタ(出雲国譲りにおいて最後まで戦った諏訪神社ご祭神)
タケツノミ(別名、アジスキタカヒコネ、ヤタガラスとも言われるスサノオの孫)
タケオココロ(武雄心命、景行天皇)
・・

なので、

「みごとに敵を成敗して反乱を鎮圧することができたなら、古来からの勇猛果敢な武人のみが名乗ることを許された<武>を号すること許可しよう。そして東国 への遠征は、ヤマトの<武>として行軍指揮することを許可しよう。(やれるもんならやってみろ!)」

と、父である景行天皇は、朝議の場で言い放ったかも しれません。

この想像(妄想?^^;)の前提に立つと、東日本の各地にヤマトタケル伝説として各地で熱狂的に歓迎されて神社のご祭神などとして祭られていることの説明がつくような気がします。

九州での成功、ヤマトの「武」の成就については、たいへんなビックニュースとして各地の首長に伝えられ、進軍先である東国各地には、今か今かと到着が待ち望まれるようなヒーローとして伝聞された・・・ってことで ^^;

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