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ヤマトの「武」の情景(14)

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久々です。(このカテゴリー、まだ生きていた?w)

八郷盆地の丸山古墳のお話です。
崇神天皇の皇子で東国(木国=毛国?)に派遣され、東国の開発の礎になった豊城入彦命がそこに祀られているという伝承がある?とのことです。
豊城入彦命(豊木入日子命)については、かつて記事にしたことがあります。
http://yellow-black.cocolog-nifty.com/tabi/2012/02/post-4432.html

八郷(やさと)という地名については、最近なんども耳にしていました。一昨年頃から、ダーチャ(ロシア式週末農園別荘?)を筑波山の麓、常陸の国の某所に取得した姉(の「たちはな亭」)の手伝いを何度かしていますが、そのダーチャ横丁の住人(お隣さん)の方が八郷盆地が出身地とのことです。

そして八郷盆地の果物が素晴らしいということで、フルーツラインなる一年中果物狩りができる(かもしれない)道があるとか、その近くにあるフラワーパークで買った宇宙芋がどうとか、茅葺屋根の旧家が沢山残っていて観光名所になっているとか、面白い(時事?)ネタとしては、フィギュアスケートで有名な羽生弓弦君の出身地(かと思わせるような地名)があったりw
なんだか、カオスな香り漂う妖しげな土地のようです。「たちはな亭」さん、なんどもこの地名を連呼してその素晴らしさを主張されていたように思いますが、 え? なに?なんなの? いまいちピンとこなくて、気に留めることなく過ぎていました。

ところで、手伝いのついでにちょっとだけ観光を・・ということで、筑波山に登り、筑波神社に詣でたときに、山門に仁王像よろしく、マイヒーローのヤマトの「武」と、豊木入日子命のブロンズ像があり写真を撮りました。それがトップの写真、左が「武」で右が「豊木入日子命」です。

以下、由緒書きです。

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豊木入日子命の内容を以下に(そのまま)引用します。
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豊木入日子命
筑波山に縁り深い古代武人の一人で第十第崇神天皇の皇子である。命が或る夜大和国みもろ山に登って東に向かい刀と槍を各八回振る様を夢見られ天皇は霊夢の謎を解き給いて命を東国(木国)に遣わし給う。命は永くこの地を治められ筑波の里で神去り給うたがご遺徳を慕う山西の民により宇都宮二荒山神社に祀られて下毛君 上毛君の祖と仰がれた。五世紀頃山東の柿岡に栄えた佐自奴君(さじぬのきみ)もまた同族である。
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霊夢と謎解きの話は記紀に記述されている有名なお話です。宇都宮の二荒山神社には実際に参拝しています。注目すべきは、「~永くこの地を治められ筑波の里でお亡くなりになって(神去り給うて)~ 柿岡に栄えた佐自奴君(さじぬのきみ)もまた同族 ~」の下り。

お亡くなりになったということは、その御陵なり古墳なりが伝承されているかもしれない?

明確な地名「柿岡」について調べると、地理的には現在の石岡市柿岡町は八郷盆地のほぼど真ん中、筑波山からみて山東に位置したところにありました。
Kakioka_map Kakioka_map2
地図でみると、柿岡地区の中に丸山古墳とあり、拡大してみると「佐自奴君」の氏神であろう神社、佐志能神社もありました。さらに調べると

Maruyama_1 Maruyama_2 Maruyama_3

※詳しい探訪記など見つけました↓
http://blog.goo.ne.jp/hanako1033/e/981518985f4f38ca0d29e3717c495c37
(「ビーズうさぎのハナちゃんです!」より)
(Google! 現地に行かなくてここまで情報収集が出来るっていいね!)

古墳の発掘調査によって発見された副葬品については、柿岡博物館に所蔵されていると書かれていますが、近くの中央公民館に展示されたりもしているようで、Googleで展示物の写真を確認できました。

Maruyama_4 Maruyama_5 Maruyama_6
http://www.city.ishioka.lg.jp/page/page000826.html
前方後円墳の前の形式である(かなり古い)前方後方墳であること、副葬品に畿内(大和、奈良)の影響を受けたであろう特徴が色濃く見られること、何よりも伝承としてハッキリと豊木入日子命の奥津城(御陵)であると語り継がれており、古墳が荒らされることなく大事に残されているとのこと。

それにしても、豊木入日子命の副葬品である可能性のある(史料価値の高い、一級品の副葬品である発掘資料の)鉄剣とか勾玉とか鏡とかを、こんなセキュリティーの甘い(簡単に盗難されそうな?)公民館のロビーに展示してある?! ちょっとした驚きです。国宝級の資料のような気がするのですが。
その価値が判ったいない(世間一般に知れ渡っていない)今こそがチャンス!?
(すぐ近くで見れるチャンス!って意味ですよ!w)
Kasaoka_kouminkan


数年前のこと、毛国巡りということで群馬県の大きな古墳を探訪しながら豊城入彦命の御陵を探したことがありますが、このときに訪れた古墳については根拠乏しく名乗りを上げたもん勝ち? のような無理やり感の強い”治定”であったり、明らかに時代がズレているような説明であったりしました。
http://yellow-black.cocolog-nifty.com/tabi/2012/02/post-8388.html
http://yellow-black.cocolog-nifty.com/tabi/2012/02/post-f66b.html
http://yellow-black.cocolog-nifty.com/tabi/2012/03/post-6134.html

実は、毛国よりも、常陸国のほうが古いかもしれない? (当時においては先進的、先に開拓された、関東開拓の拠点だった!) 毛国(群馬、栃木)ではなく、常陸(茨城)にある古墳のほうが、豊城入彦命の陵として妥当性が高い?

東海道とは、今でこそ陸上の道を思い浮かべるが、そもそもは海の道であり、その終点が霞ヶ浦を経て上陸する場所である常陸国の(筑波山の山東の方向にある)石岡市あたり・・・。
丸山古墳
これは、当たり! かもしれない?(豊城入彦命の陵として)

ヤマトの「武」が東国を遠征するもっと前に、すでのこの地には崇神天皇により四道将軍が遣わされたり、豊城入彦命が遣わされており、それらの(開拓の)先人があったからこその、ヤマトの「武」の東国遠征であったということですね。

ところで、筑波山という山を、これまでは陸から、関東平野の西側(埼玉)から眺めて、近づいていきながら、特に感慨もなく・・・だったのですが、
古代の人、東海道を「海の道」として使っていた頃の人たちにとってのこの山影は、旅の終わりを告げる象徴的なシンボルだった?

東海道を、太平洋の海路を遠路はるばる航海してきて、ときには太平洋の荒波を受けながら、やっとのことで霞ヶ浦の穏やか流れに進みゆき、ようやく到着した東海道の終着点である常陸の国府に近づいてきたことを知る。そして、目前には特徴的な筑波山の山影があり、その山影が近づくことで、旅の終わりを感じ、航海の無事を感謝した・・・

古代人にとっての筑波山に対する感慨は、海(霞ヶ浦)側から見たときの、旅の安全の感謝を込めたものだったかも。

ヤマトの「武」も、ようやくたどり着いた霞ヶ浦の津(みなと)からこの山影を臨みつつ、旅の無事を(実は、オトタチバナは無事でした^^;)感謝したことでしょう。
丸山古墳のある丘の神社、佐志能神社の御祭神には、しっかりとヤマトの「武」、すなわちヤマト「武」も祀られているようです。
http://www.genbu.net/data/hitati/sasino3_title.htm

ところで、トップのヤマトの「武」の銅像、カッコいいですね♪
(秩父の三峰神社のそれが・・ちょっとねぇ~ ^^;)

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