古代史の迷宮

纒向遺跡

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今朝の新聞の文化欄に「纒向遺跡と国家誕生の息吹」と題した記事がありました。

記事によると奈良県桜井市の同遺跡から大型の建物跡が発見されたため「卑弥呼の宮殿跡を発見」とか「邪馬台国大和説が有力に」との見出しで大きなニュースになっていると書かれています。

この土日で現地で説明会があるそうで 1万人?の人出を見込んでる? 笑)

http://www.asahi.com/national/update/1113/OSK200911130114.html

http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/091114/acd0911141145003-p2.htm

少し前なら気にもとめなかった話題ですが^^

記事では纒向遺跡の特徴を次のように説明しています。

~土器が東海から北陸、九州まで幅広い地域から持ち込まれる。こうした点から纒向は列島各地の人々が集めらあれ、「新首都」として建設されたとの説が唱えられてきた。宮殿群の意義は、首都に不可欠な要素が初めて加えられたことである。~

このあと、魏志倭人伝の卑弥呼の説明に記事の大半が使われて、邪馬台国の大和説が俄然有利になり、九州説は「お国自慢的なレベル?」とかかかれています。

古代史ネタ♪ 楽しいですね~^^

ただ自分としてはすこし不満なのは、奈良の地、大和の三輪山の山麓にある遺跡であるのに、記紀に書かれている(二世紀頃の同地での出来事と推察されている)神武天皇の即位がひとことも触れられていなかったこと。

神武東遷はもちろん、神武東征も、否、神武の名すらひとことも書かれていない。^^;

唯一関連する記述としては

~ こうしたことは、「最初の実在した天皇(大王)」とされる第10代祟神天皇の都宮(磯城瑞籬宮)や11代垂仁天皇、12代景行天皇の宮がいずれも纒向の地に営まれたとする記録とも符号する。 ~

とあるのみ。

符号する記録というのは、もちろん古事記日本書紀のことですが、記録?ですか・・・  苦笑)

日本側の、自国の歴史資料に対するこの取り扱いの不当さはいったいなぜ? 

記紀にあるロマンあふれる大和周辺でのエピソード「神話?」については一瞥もされないってことですね  ^^;

よく言われることですが、卑弥呼という 屈辱的な漢字をことさらに選んでかかれている他国の歴史書の記述を大問題にして、やれ九州だ、やれ大和だ・・・ ちょっと情けなくないか~

日本書紀、古事記の問題、すなわち当時の歴史の勝者(藤原)の意図が強く働いており、改竄や隠蔽やらの疑惑は大きいのであるが、それでも「神話」というひとことで片付けちゃって一瞥もされずに切り捨てられて、魏志倭人伝のスカスカの記述に振り回されて右往左往するのは、ちょっとねぇ~ 

『せっかく世界でもトップレベルの「おもしろい古代史」が日本には眠っているのに、これを知らないままでいるのはもったいない話ではないか。太古の物語はわれわれ日本人の遺伝子に焼付けられているはずである。だからわれわれは、京都を愛し、ヤマト(奈良)を懐かしむのである。』 

古代史ノンフィクション作家の関祐二さんの「古代史9つの謎を掘り起こす」の前書きの言葉です。

まったく同感です。^^

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高麗神社入門

高麗神社を基点とした山坂トレーニング(20kmコース)を行いました。

ところで高麗神社、ブラスバンドの演奏をやっていたり、出店があったりと何やら賑やかです? 

なんでも建郡1300年の記念事業ということで色んな催しを行っていました。

催しのひとつに「高麗神社入門」という30分ほどの境内説明ツアーがありました。
走り終わって汗どろどろ状態で参加させていただきました(失礼しました^^;)

説明してくださるのは第60代宮司で開口一番

「私が第60代宮司の高麗です」

と名乗られました。

そうなんです。初代の高麗若光から連綿とお名前を受け継がれており、今に至るまで高麗姓を名乗っておられます。

初代の若光と同じ頃に活躍した同族の著名人の高麗福信という人がいます。
この人の場合は若光とは対照的に、自分の名前をより日本的なものにしたいとの希望を朝廷にお願いし、高倉という姓を貰って高倉福信というように名前を変えています。
多くの渡来人がそうであるように・・・

高麗神社の宮司の家系は違いました。

高麗若光から、今にいたるまで高麗という名前を誇りとして生き続け、苗字を変えることなく現在に至っています。

過去に高麗神社を訪れた著名人について紹介されるエピソードにも、氏族のアイデンティティー、唐と新羅によって滅ぼされた高句麗国への敬慕心?のようなもの感じました。

30分ほどの短い時間ではありましたが大変興味深くお話を拝聴した次第です^^

[追記9/14]

ネット検索していたら、すごく判りやすく解説されている方のページを見つけました。Good♪です^^ ↓

http://bell.jp/pancho/travel/saitama/koma-jinja.htm

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古代における「板材」の価値についての妄想?

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川の博物館の特別展「埼玉圏の原始・古代人-人の動きをモノから探る-」を見てきました。http://www.river-museum.jp/exhibition/plan/post.html

特別講演も聴講させていただきました。

「埼玉の古墳とか埴輪から判る古代の技術、技術者の流れをさぐるお話」、「古墳で発掘される陶器のお話」、そして「古代の港の跡と考えられる遺跡についてと古代の河川交通についてのおはなし」

内容は専門的でしたが色々と興味深かったです。

展示物および講演の中で古代の和船の発達の段階についての説明(展示)がありました。

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縄文時代の船の形態は丸木舟(くり舟、うち側を刳り貫いたふね)ですが、古墳時代には、準構造船という中間的な形態の舟があり、それがいつごろから部材を組み合わせて形づくる構造船となるわけです。

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構造船を可能にする技術は何かな?

それは均一な厚みの平板をつくりだす技術、道具的には縦ひきノコギリが重要なのかな?

丸太から板材を切り出す(製材する)技術がなかったら、精密な加工が必要な構造船は出来ないわけで、それを可能にするノコギリ(大鋸:おが)というものがない間は、くりぬき舟とか、それを延長した準構造船しか作れなかったんだろうな~ とかボンヤリ考えていました。

もしかしたら、ノコギリによって、「板」を加工できるという技術は、画期的な(当時の)近代技術だったのかもしれない?

ノコギリはもちろん鉄を使った道具ですが、剣とか斧とかは、石斧などの磨製石器などで(効率は相当悪いですが)代用ができるかもしれないが、ノコギリについては・・・・当時の最高の技術だったのかもしれない。

古代の遺跡から、あるいは古代の建造物に、 平たく薄い板材が使われているのをみかけたら、その背景に木工加工技術とそれを可能にする大工道具の伝播、製鉄(鍛冶)技術の伝播を読み取り、驚きと感動をもって注目すべきかもしません♪

以上、素人の勝手な推測です^^)

ネットで調べたところでは、大鋸(おが)という縦ひき鋸によって丸太から板材を切り出すようになったのは、かなり時代が下ってからのようでした。

板材は、建築材料としては、「床」として使われることを考えると、縄文時代からの伝統的な住居の形式である竪穴住居(柱を地面に立てて、土間に寝起きする暮らし)から高床式の住居に変わるためには丸太から板材を作り出す技(道具)が必須であったと思われます。

ノコギリがない場合の板材の加工(製造)は、釿(チョウナ)という道具によって不要な部分を削り取ることによって対応していたようです。その技術は仏教寺院の建造のために招かれた百済の工人によってもたらされたようです。

金剛組という世界でもっとも古い創業の会社が日本に存在しますがその設立の由来は、聖徳太子が百済より招いた建築技師の金剛重光に由来するとのことです。それで、聖徳太子は政治家としての顔とは別に技術者としての顔があるようで、現代においてもお宮大工、船大工などのお祭り?において太子講というかたちで尊ばれているようです。

とりとめのない話となってきましたが以下はネット検索でみつけた関連情報です^^

・国宝建築にみられる木材加工技術(昔は木を割っていたということ) http://www.asahi-net.or.jp/~hf2t-nkn/jcom/kokuho3.html#warizai

 ~ 日本では横挽き鋸は古くから使われていたが,縦挽き鋸が用いられるようになったのは室町時代以降というから、それまでは木材はほとんど楔で割って用いられたのであろう。中国や朝鮮ではもっと前から縦挽き鋸が使われていたというが日本ではどうして使われなかったのだろうか。それは日本にはスギやヒノキという容易に、しかも縦に真っ直ぐに割れ易い木があり、割って製材した方が簡単で、あえて縦挽き鋸を使う必要が無かったとされている。木材を割る製材法は繊維に沿って割れるので、繊維を時として切断してしまう鋸による製材法よりも確かに木材の性質を生かして上手に使うことにつながる。しかし室町時代に入り、真っ直ぐに割れる木材が少なくなるとさすがに楔で割る製材だけではどうしようもなくなり、縦挽き鋸が使われるようになってきたわけである。 ~

・埋もれた文化財の話 http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/buried_cultural/story/24/

 ~鋸には横挽き鋸と、縦挽き鋸とがあります。わが国では、少なくとも13世紀頃までは、縦挽き鋸は存在しませんでした。そのため板材や角材を必要とするときは、伐採した木材に、鑿で何カ所もの穴を穿ち、その穴に木の楔を木槌で打ち込んで割っていました。板にする場合は、その割り材をさらに何度も割り、必要な厚さになると、木の表面を手斧ではつって仕上げました。このような製材法では、当然ながら一本の丸太から得られる板材や角材は限られていた上、厚さや太さにも限界がありました。しかも、このような方法で板材や角材を得られる樹木は、ヒノキやスギなど木目の通った良材に限られていました。しかし、13世紀以降になると、ヒノキやスギの良材が少なくなるにもかかわらず、都市の拡大に伴う住宅建築の増大によって板材や角材の需要は増える一方でした。そこで、針葉樹や広葉樹を問わず、どんな木材でも思いのままの柱材や板材・角材を得ることができる、2人挽きの縦挽き鋸「大鋸」が、中国から移入されました。この大鋸は、2人で挽くため、中央で鋸の目の方向が異なっていました。しかし、大鋸は、引き手2人の呼吸を合わすのが難しいうえ、きわめて高価であったらしく、それほど普及しなかったようです。~

・鋸の話 http://www.hand-made-home.com/daiku/daikus/nokogiri2/nokogiri2.html

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~ この一人挽の框鋸を大型化したものが二人挽の「大鋸」と呼ばれる縦挽鋸である。大鋸が大陸から我が国に伝えられたのは室町中期(1400年)前後とされている。この二人挽の大鋸を「框付縦挽製材鋸」と呼んでいる。この大鋸が現れるまで、我が国には大型の縦挽鋸はなく、大きな丸太材を楔や大きな割鉈で打ち割って、建築用材を得ていた。その方式を「打ち割り法」と呼んでいる。その打ち割り方式では材の無駄が多く、打ち割った木面を釿やヤリガンナで仕上げるのに大工は大変に苦労していた。しかし、打ち割る良材も乏しくなってきた矢先、大鋸が現れたのである。それまで、打ち割ることができなかった松材や欅材の木取が可能となり、堂宮建築の木工事が一躍向上したのである。
 大鋸がどのような経路で我が国に伝えられたのかは今もって不明である。 ~

・釿(チョウナ)の話 http://www.hand-made-home.com/daiku/daikus/cyouna4/cyouna4.html

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 ~ 私は大工に弟子入りして、半年を過ぎても釿はつりが上達せず、毎日兄弟子にからかわれ、何とか上達する手立てはないものかと思案の毎日でした。十二月三十日、親方が今日は「釿仕舞い」だというので、仕事場を清掃し整理整頓し、親方の大工道具をはじめ、すべての道具を油拭し、墨壺は墨池の墨綿を洗い清めて寒の水で溶かした削り墨の墨液を入れて親方に手渡しました。親方は釿刃を研ぎ澄まして、見事な曲がりの柄を仕込み、指金、墨壺、墨指、釿を三宝にのせて、御神酒と共に床の間に供え、掛軸は聖徳太子が指金を持ったお姿のものが掛けられ、正月の準備を手伝いました。太子の前に供えられた親方の釿を見た時、その美しさに感激しそのような釿を新調すれば上手にはつりが出来るのではないかと考えたのでした。 ・・中略・・ 「式神さんというのは、古い古い昔のこと百済の国(今の韓国)より多くの優秀な建築技術者(工人)が我が国に招かれました。その当時の日本の工人は堀立柱の建築方式でしたが、渡来した工人たちが建立しようとする建物は礎石の上に柱を立てるという新しい方式でしたので日本の工人たちは驚いたのでした。渡来した時、彼等の道具箱の中には見事な大工道具が一杯に詰っていました。日本の土地にも言葉にもなじみ、理解できるようになり、日本の工人たちは彼等の指揮のもと、真新しい工法の建物を手懸けたのでした。しかし残念なことに彼等が百済から持参した大工道具が一つ減り二つ減りと紛失していきました。無断で借りた日本の工人たちは、その道具を正目手本として刃物は鍛冶屋に鍛えさせ、木の部分は自分が作り、正目手本とした道具より遙かに見事なものを次々と作り上げて行きました。しかし驚いたことに、無断で借りていた大工道具は複製されると、いつの間にか渡来した工人のもとにきっちりと返されていたのです。それを百済の工人は少しも驚きませんでした。驚いたのは日本の工人たちでした。無断で借りたことを深く詫びて複製したことを伝え、それからお互いの交流が始まり、『規矩の技』も教えてもらったのだろう」と島棟梁は話を続けました。 ~

・現代の木挽き(大鋸の名人)の話 http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Ivory/2387/Kikigaki/Oga.htm

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 ~木挽き体験前の、参加者との懇談のときだけは、名人から柔和な「じいちゃん」の顔になった… が、参加者による木挽き体験が始まると、すぐに職人の顔に戻った ~

・大王のひつぎ:実験航海(古代船 海王) http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/ 

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 ~ 「倭の五王」から、九州の磐井の乱を経て、飛鳥文化が花開く推古女帝の時代(5~7世紀)に、大和の大王(天皇)陵や特定豪族の石のひつぎが熊本・宇土半島産の阿蘇のピンク石で造られ運ばれたという。この古代史上の謎に、考古学、古代史、海事史研究者が復元古代船「海王」で挑む実験航海が行われた。

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 2005年7月24日、宇土市を出航、有明海から北部九州沿岸、瀬戸内海を経て、34日目の8月26日、最終目的地の大阪南港に到着した。総航行距離は1006キロ。古代航海の実像を示す貴重な記録が残され、多くの成果が得られた。 ~

ところで日本の木材加工(宮大工、船大工、etc)を大きく進化させるきかけとなった聖徳太子の建立した四天王寺。そのきっかけは物部と蘇我の戦いの最中に戦況不利の中で「ぬるで」の木から四天王像を彫って祈ったときの誓願に由来するらしいです。

あれ? どっかで聞いた話だなぁ・・・ (あのマンガだ! 笑)

去年、ベニヤ板でカヌーを自作したわけですが、非常に薄く均一の板材を使用して制作されているので、あれも一種の構造船ということで、船の歴史からみると非常に近代的な??? 苦笑)

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二荒神社

宇都宮にある二荒神社に立ち寄ってから帰ることにしました。

二荒神社、日光にも同名のそれがありますがこことの違いは?? 詳しいことはよく判りませんが、下野(しもつけ)国の一ノ宮であり古くからある由緒正しき神社ということで一度は行ってみたいと思ってました。宇都宮市のど真ん中!生活の中に息づいている感じがいいですね~^^

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この日も生まれて間もない赤ちゃんを連れての宮参りをしている敬虔な家族づれが何組もおられました。なんだかいいですね~~^^

さて、御由緒を拝見・・・あれ? ちょっと気になる説明がされています。

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ご祭神:豊城入彦

相殿:大物主(大国さま)、事代主(恵比寿さま)

と書かれていますが、これは間違い(記紀による歴史改竄による誤認?)であります^^

大物主=ニギハヤヒ、でありますが、記紀において「大物主は大国主である」などと書かれているためにこのような補足説明がされているわけです。(そして大国=大黒というような誤解によって七福神の大黒様と勘違いされるようです)

事代主のことを恵比寿さまと書かれているのは、事代主の名前(日向名)がイビシツヌノミコトが訛ってエビスノミコトとなり恵比寿さまということにされた? 

ご由緒の要点としては、

・崇神天皇が東国(毛野国)に第一皇子の豊城入彦を遣わした

・その曾孫の奈良別王が仁徳天皇の時代において創建しご祭神として豊城入彦を祀った

・大物主、事代主を相殿として祀った

ということです。

以下は摂社末社に祀られているご祭 神の説明書き^^

スサノオの存在感は圧倒的ですね~ 

東国は出雲であったと言われるのも判る気がします^^

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神武東征の物語 (6) ウマシマジ

花嫁の父・・・ではなくて兄 ^^; のウマシマジです。

大和系出雲(ニギハヤヒ系出雲)の代表者、ニギハヤヒの長男になります。ただ原田常治さんも(古代日本正史の中で)「もしかしたら大和入りする前の子供がおられて、その子孫が大神神社の初代宮司として抜擢されたオオタタネコなのかもしれない・・」と推察されています。詳細は不明です。

血統的な意味では長子ではないかもしれませんが、大和における統治権において、ナガスネヒコの血統を受け継いだ長男という点ではウマシマジが長男です。

ただ、出雲系(というかスサノオの家系)はモンゴルとか北満州の出身ということで、そこでの風俗習慣としては末子相続、末っ子が(男でも女でも)跡を継ぐということです。そのため父親のニギハヤヒが亡くなってからは正統継承者のイスケヨリヒメの代行統治を行っており、今回の婚儀によって、その代行役を終えることになります。

ウマシマジのその後はというと、島根県(出雲)の石見に住まわれたようです。石見一ノ宮の物部神社にかなり詳し記録が残されているそうです。 以下、古代日本正史の「大和に養子に来た伊波礼彦尊、結婚式と鎮魂祭(P440~)」から引用します。
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結婚式と鎮魂祭
結婚(即位)式は、二四一年一月一日(旧暦)が正しいようである。現在の二月十一日である。この時のことは、ニギハヤヒの没後、妹のイスケヨリヒメの代行政治を二十年もしていて、政権を神武天皇に渡してウマシマジが最後に住んだ場所に、その後書きなおされてはいるが、かなり詳しく記されてあった。

『物部神社(石見一の宮)旧国幣小社 島根県大田市川合町川合八百山
(祭神)ウマシマジノミコト
(記録)継体天皇八年勅命によって神殿創建、祭神ウマシマジノミコトは物部氏の始祖な。神武天皇大倭国に御遷都の時大功あり。天皇其功を賞して、フツノミタマの神剣を賜う。(註、熊野で天香山尊より預かったフツノミタマの神剣を返した。)
祭神も亦、天祖(スサノオノミコト)より拝領せる十種の神宝を奉り給う(註、養子として、スサノオ、ニギハヤヒと受け継いだ王位継承のしるしの十種の神宝を、神武天皇に渡した)。かくて、辛酉年正月朔日、天皇即位し給う時(註、結婚式)、祭神は神盾を立て、十種の神宝を安置して斎い奉る。この年十一月朔日、十種の神宝を斎きて、鎮魂の式を行う。今、宮中に於いて十一月二十二日夜行わせららるる鎮魂式ここに始まる。後、物部の軍兵を率い、尾張、美濃、越後の諸豪族を平定し、更に播磨、丹波を経て石見に入り、八百山の麓に宮居を築き、この地に薨去す。御神墓は社の背の八百山にあり。
・・・(中略)』

この記録の中に、スサノオ、ニギハヤヒ、摂政ウマシマジと受け継いだ、王位継承のしるし十種の神宝を神武天皇が受け取られたことが書いてあったので、神武天皇が日向から大和のイスケヨリヒメの処へ婿養子にこられたことが、ハッキリした。その線を辿って調べたら、次々とその証明が出てきた。
・・・
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うましうるわし奈良

JR東海のキャッチコピーに使われている「うまし」ですが、日本人の深層意識にビビッと来るようです^^

カテゴリー:古代史の迷宮、神武東征のシリーズはこれにて終了とします。

また奈良古道マラニックに行きたくなってきたなぁ~・・・・

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神武東征の物語 (5) アジスキタカヒコネ

今日は建国記念日、紀元節です。神武東征ではなくて神武東遷での記念日、イワレヒコとイスケヨリヒメのご成婚なさった日ですね^^

さて、日向名をアジスキタカヒコネ、出雲名をタケツノミ(武角身)、通称ヤタガラスについて書こうと思っていますが・・・ちょっとトンでもなく深い迷宮に迷い入ってます。

タケツノミ自身については、オオナムチ(大国主)とタギリヒメ(コノハナサクヤヒメ)の長男ということで、これまでにも何度か触れています。
問題はそのタケツノミの奈良での居住地である葛城・・・ いわゆる葛城王朝説、ちょっと謎が深いです。そして京都の賀茂・・・

アジスキタケヒコネは葛城(御所)の高鴨神社のご祭神なわけで、神武天皇の片腕としてこの地方に住んで活躍した姿が想像できます。この鴨神社ですが、京都にも似たような神社があり賀茂神社(上賀茂、下賀茂)として有名です。そして鴨(賀茂)の一族と渡来氏族の秦氏との強いつながりを指摘する人たちがいます。秦氏といえば知る人ぞ知る、流浪のユダヤ民族であるとか、弓月国(中央アジア、カザフスタンあたり?)の人たちであるとか、とにかく養蚕や土木(治水)建築などの高度な技術力をもった人たちです。 この関連での有名なお話ですが、三種の神器のひとつヤタノ鏡のうらにヘブライ語で旧約聖書の一句が刻まれているとか・・・・ やばいですね~ トンデも本の世界に迷い入ってしまいます。

鴨(賀茂)氏の有名人、何人か知っている人がいました。賀茂真淵、この人は幕末の蘭学者(医者)だったかな?(あまり詳しく知りません^^;)
最近(・・といっていいかな?)流行ものとなった陰陽師の安倍清明のお師匠さんである賀茂忠行。平安時代の陰陽師の宗家としての賀茂家を興した人だそうです。

さらに時代を遡ると、葛城における超有名人である役小角! 鴨氏のスーパーエリートです^^ (あれ? 今気がついたのですが役小角の角は、武角身の角とおんなじだ^^)
この人がもっとも特徴的であると思うのですが、鴨(賀茂)氏の氏族としての特質は、その宗教性であるように感じています。
奈良の初期の仏教界の高僧の多くが葛城(葛城山や吉野で)修行しており、山林仏教の匂いをぷんぷん漂わせていたり・・・

ところで葛城のご祭神の一言主(事代主のことか?)が土佐の地に流された話があります。雄略天皇によって流されるわけですがご祭神が流されるということは、祭神を祭っていた鴨の一族もろとも流されたってことだと思います。その物語の中で面白いのは、一言主が雄略天皇とそっくり?だったと書かれていること。この記述から、葛城王朝説、つまり天皇家に匹敵するほどの勢力をもった鴨の一族が存在したと考えられるわけです。

「そっくり」だったのは経済力や軍事力のことではなくて、氏族としての特質もそれに該当していたのかもしれない? 天皇家が日本国の祭祀の頂点、祭祀王として(今でも)存続しているように、そのような高い宗教性、あるいは宗教的な権威を鴨の一族は持っていたということか?

一言主が出雲国譲りをうけた事代主のことであるとすれば、兄弟で大和平野の西南の葛城に居をかまえたということかもしれません。そのとき考えられるのは、出雲国の正統な継承者である大国主の末子としての(国譲りをうけた)事代主と、日向と大和系(ニギハヤヒ系)出雲の統一的な継承者としてのイワレヒコ(神武天皇)が、大和平野に並立するときに・・・どうだったのだろうか?(どっちが偉かった的な話^^) 葛城王朝説、ちょっと面白いですね~^^;

そもそもこの鴨の一族やイワレヒコ(天皇家)の宗教性の原点はどこから(誰から)もたらされたのか?

記紀成立の目的(当時の国際情勢)を考えるとそれを明確にすることは出来なかったのでしょうが、いわゆるトンでも本の指摘するような可能性(日ユ同祖論)はあったのか?

いろいろ調べていたら、葛城のカツラはツタ科のそれではなくて高木(桂)のことなのではないか? (埼玉の毛呂山の桂木観音の桂ですね。行基が開基のお寺ってところも繋がるし^^)

そして、高木の神は、ヒミコの男弟と魏志倭人伝において書かれたのではないかと疑われている知恵の神の高皇産霊のことです。日本古代正史の中でのヒミコ(大日霊女)の章において「タカミムスビ(高御皇産霊)の神は実はヒミコの愛人のひとりである」と推察しておられます。この原田常治さんの推測によると、神武天皇のお父さんであるウガヤフキアエズの尊は高木の神の子供である(可能性がある)とのことです。

神武天皇の祖父の(可能性のある)高木の神  ・・・・ 気になります^^

オオクニヌシと一緒に祭られることの多いスクナヒコナという人がいます。この人は智恵の神として伝わっています。また高木の神(タカミムスビ)の指の間からこぼれ落ちた子だとされています。常にオオクニヌシと一緒に活躍していることから考えるとオオクニヌシはタカミムスビ(高木の神)、スクナヒコナの親子から少なからず影響を受けた可能性があるということで・・・・

記紀は出雲系の血脈のみならず、日向系のこの高木の神(タカミムスビ)の素性をも隠蔽しているのかもしれない? 

いやぁ~ ここまで書いて、自分でも何だかよく判らなくなってきました orz 苦笑)

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神武東征の物語 (4) タケミカヅチ

タケミカヅチ、とっても怪しい ^^;

タカクラジ(高倉下=天香山)の次はアジスキタカヒコネ(またの名をタケツノミ、通称ヤタガラス)を取り上げたかったのですが、どうにもタケミカヅチが気になってしょうがない・・・

神武東征の物語では、天上(日向側?)の作戦会議において登場し「自分が出かけるに及ばず。自分が葦原中つ国をかつて平定したときの剣(フツノ御魂)をもっていけば事足りる」と発言します。

日向の最高の武将で、出雲国ゆずりにおいては剣の上にあぐらをかいて出雲国ゆずりを強要し成功します。その後でタケミナカタを追いかけて諏訪の地まで進軍し「一生諏訪の地より出ません」とタケミナカタに誓約させた猛烈な武将ということです。

関東の古社である「鹿島神宮」のご祭神であり、そこから分霊して奈良の春日大社のご祭神になっているとのことで、藤原不比等が藤原(中臣)氏の氏神として(先祖)としてルーツを求めた氏神様ということです。

不比等さん、一方ではスサノオやオオトシ(ニギハヤヒ)の事跡や栄光を改竄あるいは隠蔽し、もう一方での自分の先祖と称するタケミカヅチに英雄的なエピソードを与えています。

タケミカヅチ・・・・・どうなんだろうか?

タケミカヅチのモデルとなった実在の人物は誰?
勇猛な日向系の武人が本当に居たのか?
本当に藤原(中臣)氏はその子孫であるのか?
タケミカヅチのモデルになるような日向系の実在の武人は本当にいたのか?
出雲系の実在の武人の事跡を隠蔽し日向系の武人として書き換えた可能性は?

タケミカヅチと一緒にタケミナカタを諏訪まで追い詰めたもうひとりの武将のフツヌシという人が鹿島神宮のすぐ近くの香取神宮に祭られています。この人の場合についてはかなり具体的に(詳しい)伝聞が残っているようでその人物像を描けますが、タケミカヅチについては詳細なこと(親や子の記録など)が何も判らないそうです。

実在のモデルとなるような日向系の武将がいたとしても、フツヌシの手柄を横取りするような形でかなり美化しているんじゃないか? と疑ってしまいます。

もうひとつ見過せないのは、神武東征における天上会議の席上のやりとりでの発言、

「自分が出かけるに及ばず。自分が葦原中つ国をかつて平定したときの剣(フツノ御魂)をもっていけば事足りる」

葦原中つ国が大和平野であるならば、そこを平定?したのはニギハヤヒしかいません。
葦原中つ国が広い意味での和国のことであるのならば、タケミカヅチはスサノオになります。

この発言をする前にタケミカヅチがどのような活躍をしているかというと、出雲国ゆずりの談判において砂浜におったてた「十拳の剣」のうえにあぐらをかいて国譲りを強要する勇ましい武人として登場します。そして最後まで国譲りに抵抗したタケミナカタを信州諏訪の地まで追いかけていき降伏させます。

もしからしたら「自分が葦原中つ国をかつて平定したときの剣」というのは、実際の戦場において使われたという意味ではなく、この出雲国譲りのことなのかもしれません。

出雲国譲りにおいて事代主が正当な継承者であることを証明するために、スサノオの孫、オオクニヌシの末子として受け継いだ正統継承者の証拠の品としての「十拳の剣」を根拠にして(あぐらをかいて)タケミナカタの主張を退け出雲の人々を説得した」ということを意味しているのかもしれません。

いずれにしてもフツヌシやニギハヤヒあるいはスサノオの業績をもとに創造した架空の人物のような気がするんです。 さもなくば実在した人物かもしれないが、かなり大胆に脚色して英雄化したような人物・・・・ ^^;

里中満智子の「天上の虹(漫画)」において、不比等が奏上した記紀(神話)の内容を読んだ持統天皇がその感想を述べるシーンがあります。非常に面白いです。

この漫画、そうせざるを得なかった当時の国際情勢、国内事情、持統天皇の心情などがよく説明されていて非常にGOOD♪です^^

父親である天智の長男の「大友」と夫である「天武」の間で皇位を争った壬申の乱。
天武亡き後の皇位継承の争いのもつれで処刑された「大津」は実の姉の息子。その大津の処刑の決断を自分自身(持統)が下すことになります。近親の間での骨肉の争いの辛酸を見続けていたわけです。皇位を継承するタイミングで娘を嫁がせた皇子をかついで勢力争いをする豪族(継承後に皇后の実家という権力の獲得)に嫌気がさしていた? 蘇我氏や、物部氏といった有力豪族というものが嫌になっていたのかもしれません?
藤原不比等、大和の初代統治者であるニギハヤヒ大王の存在を歴史の闇に葬り去って、天照国照という本来はニギハヤヒの尊称をかすめ取って日向のヒミコ(スサノオの現地妻)に与えています。そして女性(ヒミコ=アマテラス)が皇祖神であるという神話を創り出すことに成功します。
このことは、持統天皇の神聖を高めることで皇位継承のたびに繰り返される骨肉の争いに終止符を打つことがひとつの目的であった・・・・ということらしいです。

このタケミカヅチという軍神は、もしかしたら、持統天皇のもとで忠実な家臣として政策を遂行している自分自身(不比等)をこっそりと神話の中に紛れ込ませたのでは? ^^;

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神武東征の物語 (3) タカクラジ

古代史の迷走ランナー^^; み熊野ネットのサイトから続きを引用します^^


◆ 神武東征、ヤタガラスの導き (つづき)
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さて、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコミコト)はそこから迂回しなさって熊野の村にお着きになったときに、大きな熊が草木のなかから出たり入ったりして、すぐに姿を消した。すると、カムヤマトイワレビコミコトは急に気を失って、また、軍隊もみな気を失って倒れてしまった。

このときに熊野の高倉下(タカクラジ)が一振りの横刀(たち)を持って、天つ神の御子(カムヤマトイワレビコミコトのこと)の倒れている所に来て、その横刀を献上したところ、天つ神の御子はたちまち目覚めて、「長寝したものだ」とおっしゃった。
そして、その横刀を受け取りなさるときに、その熊野の山の荒ぶる神は自然とみな切り倒されてしまった。すると、気を失って倒れていた軍隊もことごとく目覚めた。

そこで、神の御子はその横刀を得た仔細をお問いになったところ、高倉下が答えて、「私の夢に、天照大御神と高木神の二柱の神が建御雷神(タケミカヅチノカミ)を召して、『葦原の中つ国はたいそう騒がしいようである。我が御子たちは困っているらしい。その葦原の中つ国は、もっぱら汝が平定した国である。そこで、汝、建御雷神が降って再び平定せよ』とのご命令をお下しになった。

すると、建御雷神は、『私が降らずとも、もっぱらその国を平定した横刀があるので、この刀を降しましょう』とお答え申し上げた。※この刀の名を佐士布都神(サジフツノカミ)という。またの名を甕布都神(ミカフツノカミ)という。またの名を布都御魂(フツノミタマ)。この刀は現在、石上神宮にいらっしゃる。そして、建御雷神は今度は私に向かって、『この刀を降す方法は、高倉下の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れよう。そこで、朝、目が覚めたら、お前は、この刀を持って、天つ神の御子に献上しろ』とおっしゃった。
そこで、夢の教えのままに朝早く自分の倉を見たところ、ほんとうに横刀があった。よって、この横刀を持って献上したのです」と申し上げた。

http://www.mikumano.net/setsuwa/jinmu.html
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熊野の地にたどり着いたイワレヒコ一行は謎の魔物(熊?)によって意識不明の状況に陥ります。

この意識不明の混乱した状況は一行の切羽詰った精神状況を比喩しているのだと思います。

イツセノミコトに説得されて海路を南に辿ったイワレヒコの一行でしたが、慣れない外洋の荒波にもまれ疲労困憊します。航海の最中に(案内役の)イツセノミコトも亡くなります。
ミコトが亡くなると同時に皆の中に燻っていた大和側への疑念の声が噴出したことと思います。嵐の中(熊野あたりは台風銀座です^^)で船にも大きなダメージを受けて遭難者のようにして熊野に辿りついたのかもしれません。進退が窮まったような状況が想像されます。

「今回の婚儀は大和側の策略だったのだ。orz」
「スサノオの神器である剣を騙しとられただけなのだ。orz」

イワレヒコの一行は大和側に対しての不信感の中で意気消沈していたのでしょう。

そのような状況を救ったのが高倉下(タカクラジ)。正確に言うとタカクラジが携え運んだ一振りの剣、「フツノ御魂(の剣)」がその状況を一変させます。

このフツノ御魂(剣)の威力、前々から不思議に思っていました。

この剣を武器として使った訳でもないし、一行を襲った土地の魔物についての説明もいまひとつ意味不明であるし、剣を見ただけで一行が元気を取り戻した理由が説明できていません。(納得いかないわけです。)

その剣には不思議な霊力が宿っているから・・「フッ」という言葉は、「フッと目が覚める」というように邪気を振り払うときの「音」であるから、
というように「神懸かり的なお話し」において理解するしかありませんでした。

記紀においてそのような説明がしてあります。日向の最強の軍神のタケミカヅチと関連づけた剣として説明しておりその威光によって退治されたのだと。物語としてはドラマチックで良いのですが・・・・どこか腑に落ちません。

この剣が藤原(中臣)氏の氏神であるタケミカヅチの所有物であるような書き方で登場しているのがポイントです・・(ちょっとね~~^^)

前回、イツセノミコトについて考察(妄想?^^)したときに既に触れてますが、高倉下が持ってきたこの剣こそ、今回の婚儀において結納の品として、九州側の誠意の証として、タケツノミ(ヤタガラス)によってウマシマジのもとに捧げられた神君スサノオの剣、出雲勢力の正当継承権を証する神器の剣であったと思います。

ナガスネヒコの襲撃が仮に大和側の計画的な策略であったとすれば・・・・・、婚儀自体が神君スサノオの霊剣を奪い取るための策略であるならば・・・・・、絶対にここには存在しない剣、献上される筈が無い剣という訳です。

ウマシマジの兄弟であるタカクラジがこの剣を持参してイワレヒコに献上したことで、イワレヒコ一行の中に生じた一切の疑念を晴らすことが出来ました。雲散霧消。

「長寝したものだ」の真相は、大和側に対する疑心暗鬼からの開放であったと思います。

「あの襲撃はナガスネヒコの暴走であったのか!」 誤解が解けたのでした。

ところでこの剣は、ヤマタノオロチを斬った剣の「十拳(とつかの)剣」であるのか、あるいはヤマタノオロチの尻尾から現れた「アメノムラクモの剣」であるのか?
そもそも二つの剣は同じ剣であるのか? いまひとつホントのところが不明です。
後にはヤマトタケルがこの剣をもって焼津において危機を脱したエピソードによって「草薙の剣」と呼ばれ、今は三種の神器のひとつとして熱田神宮のご神体になっています。

ヤマタノオロチを退治したときに天上に群雲が湧き起こったので「天の群雲の剣」と呼ばれる・・・という説明は、どうも後世の(記紀編纂者の)こじつけのような気がします。

剣を持参した高倉下(天香山)の息子にアメノムラクモ(天村雲)という人がいますので、その「天村雲の(所有していた、管理していた)剣」ということではなかろうか?とのことです。

おそらくは、イワレヒコ一行の危機を救った熊野での出来事を感謝して(一旦は受け取った剣であるが)ウマシマジへ再度譲渡された。そしてウマシマジからタカクラジへ、やがて息子の天村雲へと言う具合に継承されていった・・・・

イワレヒコの皇后のイスケヨリヒメから始まって、最初の頃の皇后のご実家はウマシマジそしてタカクラジの子孫から出ています。実際の政権を握った実力者は皇后の実家である出雲系(ニギハヤヒ系)ということだったので、皇位を継承するタイミングでその皇后のご実家であるウマシマジ家からタカクラジ家へ神器の管理が委譲されたことと思われます。

ところでウマシマジのほうはニギハヤヒの眠る三輪山のあたりに、タカクラジのほうは大和盆地の入り口となる(地理的に重要である)葛城(御所)のあたりを本拠地とします。また、タカクラジの子孫が尾張連とあるように、東海地方を開拓していったようです。(当時は関が原を越えると蝦夷の住む未開の地)

草薙の剣が愛知県の熱田神宮のご神体として存在する理由は、記紀においてヤマトタケル伝説によって理由付けされています。その真偽のほどは解りませんがそもそもタカクラジ(の子孫)が東海地方を開拓したことを考えると、このタカクラジおよびその子孫である尾張連(天村雲など)の活躍について再検討する必要があるようです。

壬申の乱で(葛城に近い)吉野に隠棲した大海人皇子(天武天皇)が尾張氏の協力を得ながら兵を上げ勝利したこと、しかもその事実(尾張氏の活躍)が記紀では隠蔽されていること。出雲系、物部や蘇我の活躍についての記紀での扱いは極端に不当な扱いを受けているようです。・・・(ここらへんの話は、関裕二さんの歴史本に詳しく書かれています。)

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神武東征の物語 (2) イツセノミコト

ナガスネヒコに矢を射込まれたイワレヒコの一行、その矢はイワレヒコの長兄であるイツセノミコトを傷つけました。最短コースでの大和入りは阻止されてしまいます。

イツセノミコト、長兄であることから考えると今回の婿入り話において仲人役として交渉にあたった1人であると思われます。

今回の婚儀は単なる婿入り話ではなくて和国の将来を決定する重要な大同団結政策でありました。大国主による平和的な統治が続いていた和国ですが大国主の死後「倭国乱れる」と魏志倭人伝に書かれるような混乱した状況に陥り、老年のヒミコが大国主の末子(事代主)の後見人というかたちで擁立せられることでようやく落ち着きます。・・・それも束の間、事代主の出雲入りによって出雲系の強硬派の人たちを刺激。最後は建御名方ら反対派の出雲追放(出雲国譲り)という事態に発展します。この件については中立の立場にあった大和勢力ですが、お互いに出方を窺うような時期であり和国分裂の危機の真っ只中にあったと思われます。一触即発。

そんな中で今回の大同団結企画を推し進めた人は、大和側すなわち出雲系は(スサノオの息子のニギハヤヒの長男である)ウマシマジ、九州側すなわちヒミコ系は、ヒミコの末子であるウガヤフキアエズノミコトの長男であるイツセノミコト、そして日向系と出雲系の両方の血脈を有する(中立の立場に立てる)タカヒコネ、この3人が中心になり九州側と大和側が連絡を取り合いながら婚儀という形での平和的な大同団結を目指しました。

婚約時に花婿であるイワレヒコ側(九州側)から納められた結納の品、タカヒコネによって九州から大和へ運ばれたその品は、ただの結納品ではありませんでした。
この婚儀が分裂の危機にあった和国を救う大同団結であることを物語るには充分すぎるアイテム。

神君スサノオの霊剣です。

ヤマタノオロチの尻尾から出たと記紀が言うところの剣、後世において「アメノムラクモの剣」とか「草薙剣」と呼ばれる神剣、出雲系の正統継承者の象徴であるところの神器でした。スサノオから大国主(オオアナムチ)へ和国の正統継承者の証として譲り渡されたもので、現在では皇位継承のしるし、三種の神器のひとつとなっている剣です。

ちなみにタカヒコネ(出雲名はタケツノミ)は、出雲国譲りをうけた事代主の兄、というか大国主の長男であり武角身というように「武」という字があることから、すこぶる勇敢な男前(コノハナサクヤヒメの息子^^)であったと思われます。(実はこの人がヤタガラスなんです^^)

この3人で何度も何度も打ち合わせ用意周到に推し進めてきた婚姻話であり和国の分裂を回避するための秘策、大同団結策でした。ナガスネヒコのこのような暴挙についてはまったくの想定外の出来事だったと思います。

イワレヒコ側では具体的なダメージ(イツセノミコトの矢傷)もさることながら精神的なダメージが相当大きかったのではないでしょうか。

戦さを前提としていないので少人数での大和入りだったわけです。その手勢が少ないという隙を狙うかのような襲撃! (暗峠で矢を射たのがナガスネヒコの暴走であることは、この時点ではイワレヒコ側には判らない訳です。)

「そもそも、今回のこの婚儀自体が大和側が仕組んだ策略であったのでは・・」

「自分達は完全に敵の術中に陥ったのでは・・・」

「すべては九州勢力の正統後継者である自分を亡き者にするために、ニギハヤヒの長男のウマシマジが仕組んだ罠だったのではないか・・・」

「今回の婚儀への同意は、結納の品として要求された神器(スサノオの霊剣)を騙し取るための策略であったのか?」

このような疑念がイワレヒコ一行を絶望的な気持ちにさせたことと思います。遠く九州の地を離れて敵地の入り口で予想だにしなかった襲撃。

すぐにでも九州に戻りたかったことと思います。

イワレヒコ一行の中で、喧々諤々の議論があったはずです。それでも九州に戻ることなく当初予定していた西からのコースではなくて南からのコースで大和入りを決意しました。

そこには矢傷を負ったイツセノミコトの強力な説得があったからに違いありません。

「この話は、分裂の危機にある神君スサノオが建国した和国をひとつにするためのものである。ウマシマジ、タケツノミ、そして自分がひとつ想いとなって推し進めてきたことであり、私はウマシマジを信じて毛ほども疑っていない。あの襲撃は・・・なにかの手違いであり、断じて大和側の策略では無い!」

矢傷を負ったイツセノミコト本人の口から、ゆるがぬ信念によって懇々と語られることによって、疑念に陥ったイワレヒコはぎりぎりのところで説得させられたんだと思います。

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神武東征の物語 (1) ナガスネヒコ

神武東征の物語に登場する個性的な登場人物について「古代日本正史(原田常治)」の解釈に自分なりの想像を交えて^^ 紹介します。

まず、記紀で書かれているヤタガラスについて触れながら神武東征について判りやすくまとめられてるサイトがありましたので本文を引用します。

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◆神武東征、ヤタガラスの導き

熊野の神々の使いとされる八咫烏(やたがらす)。
 八咫烏の「咫」は長さの単位で、それ1字では「あた」と読み、「八咫(やあた→やた)」では「大きな」という意味になります。八咫烏とは、字義的には大きなカラスということですが、3本の足を持つカラスとして描かれます。日本サッカー協会のシンボルマークでお馴染みですね。

『古事記』や『日本書紀』には、カムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)が東征の途上、天から遣わされたヤタガラスの道案内により熊野・吉野の山中を行軍したということが記されています。

神武天皇は初め、日向の高千穂の宮にいましたが、兄のイツセノミコトとともに東方に天下を治める都を造ろうと大和に向かいました。瀬戸内海を渡り、難波から淀川を溯上、河内に入り、大和に向かおうとしましたが、大和の豪族のナガスネビコの迎撃にあい、イツセノミコトが矢傷を負い、撤退。

神武はこの敗戦を、太陽女神アマテラスの子孫であるにもかかわらず太陽に向かって戦ったためと考え、紀伊半島を南に迂回して熊野から北上して大和に侵入することを目指します。イツセノミコトは熊野に至る前に命を落としました。

・・ 以下、略

(http://www.mikumano.net/setsuwa/jinmu.html)
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まず、冒頭の神武東征は、戦って征服するようなことではなく、九州勢力の末子(正統後継者)の男性(イワレヒコ)と出雲勢力(ニギハヤヒ)の末子の女性(イスケヨリヒメ)との婚姻による大同団結が成立したということで、大変お目出度い出来事、東遷だったというのが真相のようです。

ところが大和の入り口でナガスネヒコから迎撃を受けるわけです。

このナガスネヒコはニギハヤヒが大和を統治する際にナガスネヒコの妹と結婚することで戦いを回避したことでもわかるように、ニギハヤヒによって統治される前の大和平野の原住民の頭のような人です。イワレヒコが東遷してきたときにまだ存命中だったとしたら、かなりの高齢になっていたと思われます。それでも重要な発言力と軍事権を有していたんでしょう。

そして九州勢力からの養子縁組の申し出には断固反対の立場をとっていた。

ナガスネヒコはなぜ反対の立場をとったのか? 

今は亡きニギハヤヒの生前をよく知っていたナガスネヒコです。

「もしニギハヤヒ大王が生きていたらこの養子縁組を喜んだだろうか?」という問いがナガスネヒコの心中にあり、ヒミコを代表する九州勢力に対しての生前のニギハヤヒの感情がナガスネヒコに反映されて、その結果としてイワレヒコの一行に矢を射るような事態に発展したのではないでしょうか?・・・・あくまで想像です^^

ナガスネヒコという名前からすると、脛が長い人、毛深く彫りの深い顔立ちの縄文人、長身のアイヌ民族を想像します。ニギハヤヒはこの義兄(義弟?)をとても大事に扱っていたことが想像できます。いっしょに食事をし酒の相手をしながら若き日の九州での出来事や父親であるスサノオの偉大さを懇々と語ったこともあったことでしょう。

ナガスネヒコがニギハヤヒから聞かされていた九州の話、ニギハヤヒが大歳と呼ばれて北九州を統治していた頃のヒミコやオオクニヌシといった人たちに対して聞かされた話は・・・もしかしたら、あまり好意的な話ではなかったかもしれません(と想像します^^)

まずヒミコ、年齢的にはニギハヤヒ(大歳)と同年代でありながら、尊敬する父親のスサノオの現地妻になります。ヒミコの娘がコノハナサクヤヒメと言われるように花が咲いたように美しい人だったいうことは母親のヒミコも美しく魅力的な人だったんでしょう。

そのヒミコを現地妻とした自分の父親のスサノオ。現地妻として父親に媚入ったヒミコ、メロメロになっていった父親のスサノオ(あくまで想像ですが^^)。

ヒミコに対して良い印象を持ったとは考えにくいです。(嫉妬心のようなものも入り混じっていたかもしれませんが・・・・)

さらに大国主こと大己貴尊(オオアナムチ)に対しては敵愾心のような感情があったかもしれません。妹(スサノオの末子)の婿でイケ面の優男のオオアナムチ。末子相続ゆえに正統継承者になったわけです。父親(スサノオ)と自分(大歳)が苦労して建国した和国。本来ならスサノオと一緒に戦ってきた自分が継承する可能性もあった和国とその中心地の西都。その和国をなんの苦労も無くちゃっかり譲り受けた義理の弟ってやつです。

継承してからは政治の中心地の西都で(戦の前線に出ることなく)悠々と暮らしており、しかも出雲の妹のところにはほとんど帰らなくなって、ヒミコとスサノオの娘であるコノハナサクヤヒメを西都の現地妻にし安穏と暮らしているわけです。
大歳的には、ヒミコとスサノオのこともあり二重に腹立たしい出来事だったと思います。

ナガスネヒコは、ニギハヤヒの晩酌の相手をしながら、これらの愚痴話を夜な夜な聞かされたんじゃないかな?(と想像します^^)

そのヒミコの孫でもあり、オオアナムチの末子の事代主が出雲の正統継承者として日向の軍勢の旗頭にされて出雲は九州勢力に乗っ取られます。

出雲国譲りといわれるこの事件があって間もないこのタイミングでヒミコの孫である日向勢力の正統後継者のイワレヒコの大和への婿入り話があったのですが、ナガスネヒコとしては断固反対の立場を譲れなかったのでしょう。

ヒミコ、コノハナサクヤヒメ 何するものぞ!

ナガスネヒコの根底にありイワレヒコ一行に矢を射ることになった感情の原点は若きニギハヤヒ(大歳)の義憤であったかもしれません(ちょっと嫉妬も混じってたかな?)

以上、素人の好き勝手な想像ですので^^

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前方後円墳

出雲の古墳の特徴は四角(方形)であり、九州(西都原)の古墳の特徴は円形だそうです。

それで前方後円墳という墳墓は、出雲勢力と九州勢力の団結の象徴であるとの見方が出来るわけです。

前方後円墳は3世紀ころに突然に大和盆地に出現したとのことですが、これは(日本書紀の引き伸ばされた年代ではなくて、纏向遺跡という考古学的な物証から推測される年代としての)神武天皇が即位された年代と一致するとのことです。

神武天皇は神武東征というように日本書紀では書かれていますが、戦って征服したということではなく、九州勢力の末子(正統後継者)の男性(イワレヒコ)と、出雲勢力(ニギハヤヒ)の末子の女性(イスケヨリヒメ)との婚姻による大同団結が成立したということで、大変お目出度い出来事だったというのが真相のようです。

スサノオとヒミコ同様に、イワレヒコとイスケヨリヒメの婚姻による平和的な統一がなされたわけですね^^

前方後円墳という墳墓の形がこのことを象徴しているようにも思えるし、

皇位継承の徴である三種の神器も元々は出雲の力の象徴である剣と九州の権威の象徴である鏡の二つであったし(勾玉がこれに加わったのはずっと後のこと)、

皇位を継承するための条件として、天皇(男性)は「九州系=ヒミコ系」であり皇后は「出雲系=ニギハヤヒ系(物部系)」でなければならないという暗黙の了解(というよりも必須条件?)についても、このことを物語っているそうです。

九州(ヒミコ)と出雲(スサノオ)の統一を実現させた婚姻政策は、その孫の世代においても受け継がれ、大きな混乱と戦乱に陥ることなく平和的に統一が実現されたわけです。

この神武東征(実際は東征ではなくて東遷)の物語における個性的な登場人物、たとえばヤタガラスとかタカクラジとかもお二人の婚姻のために奔走したご親族だったわけですが、
出雲を抹殺して九州(ヒミコ、天照)を神格化したい日本書紀編纂者(不比等)の意図が反映されて、3本脚のカラス?になったり、倉庫になったりして、とってもドラマチックな東征物語に仕上がっているわけですね。

ドラマチックなお話も良いですが、やっぱりホントの所を知りたい訳です ^^

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ヒミコとコノハナサクヤヒメ

スサノオや大歳(ニギハヤヒの九州時代の呼び名)が九州を統治していた時代、その当時の文化や政治の中心は九州の西都(宮崎県西都市)だったらしい。現在でも西都の近くの西都原古墳群には驚くほどの数の古墳が残っていて、古代のある時期において西都が非常に重要な場所であったことを雄弁に物語っています。

「古代日本正史(原田常治)」によると、スサノオが西都に留まって九州を統治していた頃の九州勢力の正当後継者は大日霊子(ヒミコ、記紀の編者たちが天照大神の称号を与えた人)だったそうです。そしてスサノオはヒミコを現地妻としたとのこと。

記紀では姉弟ということになってますが・・・

この大日霊子(ヒミコ)は魏志倭人伝では卑弥呼として登場します。イザナギ&イザナミの娘であり、九州勢力(日向系)の力と権威の象徴のような人になっていく人です。スサノオは占領地の統治政策の一環として(政治的な配慮からの通い婚として)ヒミコを現地妻としたのか、あるいはヒミコの魅力の虜になったのか? ^^ (カエサルがクレオパトラの魅力でメロメロになったように・・)

通い婚、有力な豪族の娘に通い血縁の関係を広げながら勢力拡大を行うことは、現代の感覚では理解しにくいです。

古代豪族(王族)の婚姻の制度として考えると、有力者の娘を現地妻にして平和的に統治を広げて行くということであり、出雲族の統治政策の常套手段だったように思われます。統治する側にとっては無益な戦いと流血をさけれるし、統治される側にとっても子孫が将来の政権へ参加できる可能性を残せるし、合理的かつ平和的な政策ですね^^
ニギハヤヒがナガスネヒコの妹を現地妻にしたのも、父親のスサノオが九州で行ったと同じ方法を踏襲したことと思われます。

スサノオの寵愛をうけたヒミコはスサノオとの間に三人の女子をもうけます。その一人が有名な多紀理姫(田心姫)こと木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)です。

花のように美しい人だったんでしょうね~^^ 
このヒミコとスサノオの血脈をもったサラブレッド姫君は、大人になってある重要人物と結ばれることになります。

記紀において大国主と呼ばれた人。

大国主というとイナバノ白ウサギでおなじみの大きな袋を背負って兄から苛めれらても最後には国を譲り受ける出雲系のヒーローです。ところがこのオオクニヌシ、記紀においては改竄の疑いが濃い人物でもあるそうです。記紀の編者たちが出雲(=物部)栄光を抹殺するために、スサノオ、八島野尊(サルタヒコ)、ニギハヤヒ(大物主)といった英雄を歴史から抹殺したり事実を歪曲したりする一方で、辻褄を合わせるために大国主というヒーローを設定した。そして抹殺した人たちの業績を彼に集約しているらしいんです。

「八千矛の神」(という本来はスサノオのこと)を大国主であると言ったり、三輪山の主であるニギハヤヒの改竄名の大物主を大国主であると言ってみたり。

大国主という人はスサノオが出雲における正妻(櫛稲田姫)とのあいだにもうけた末子(須世理姫)の婿養子であり名前は大己貴尊(オオアナムチ)だったようです。武勇に長けた人ではなくどちらかというとイケメンのインテリ(医学に詳しい?)だったようで、須世理姫が父親のスサノオの反対をふりきって恋愛結婚した相手らしいです^^ 
跡取り娘の相手であるがこの人自身はスサノオの血縁ではなかった。須世理姫と結婚することにより王族に組み込まれ、姫が末子であったためスサノオの築いた大きな国を譲り受けた人ですね。(古代は末子相続だった)

そして受け継いだ大きな国の統治先、当時の政治の中心地の西都に遣わされた。

そこでヒミコ&スサノオの娘である多紀理姫と出会い、

スサノオとヒミコがそうであったように・・・

大国主の出雲の正妻でありスサノオの末子の須世理姫にとっては、さぞ面白くなかったことでしょうね~^^

須世理姫、古事記にはハッキリと「嫉妬深い」と書かれちゃってますからね~ 苦笑)

「え?出張先で腹違いの妹(コノハナサクヤヒメ)を現地妻にした? 何それ?」
「いったい誰のおかげで出世できたと思っているの?あたしでしょ?」

・・・・簡単にわりきれないでしょうね~

このスサノオの西都での娘(コノハナサクヤヒメ)は政治的な意味においては九州勢力と出雲勢力の平和的な統一の象徴であります。
また大国主との間に生まれた息子の事代主も九州と出雲の両方の血脈を有する貴重かつ重要な存在となる訳です。

ここに出雲国ゆずり神話の舞台装置?が完成する訳です。

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サルタヒコ

スサノオの長男に八島野尊という人がいます。

「清之湯山主三名狭漏彦八島野尊(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬみこと)」

とっても長い立派なおくり名をもらっているにもかかわらず記紀においては具体的な事跡が何も書かれていない謎の人らしいです。

立派なおくり名が与えられているにもかかわらず具体的な事跡が見えてこないということは、スサノオが暴れ者にされたり、ニギハヤヒ(大歳)が神社の祭神名から抹殺され(天照という称号を奪われ)たと同様に、記紀編集者によってなんらかの改竄や隠蔽がなされたと疑う価値ありです。

で、そのおくり名に”さろ彦”とあることから「猿田彦こそ実はスサノオの長男である八島野尊ではないか?」ということらしいんです。

これは、どうなんだろうか?

猿田彦といえば、まず思い出すのは手塚治虫の火の鳥に登場する鼻のでかいキャラクター。
次に思い出すのは交通安全の神、猿田彦を祭神とする三重県鈴鹿市にある「椿大社」(この神社の交通安全のお札は自動車に貼り付けるお札の定番とも言えるもので三重県ではこの神社のお札を貼って走っている車が多い。)

その猿田彦、なぞの神であり、記紀での扱いはあまり良くないです。まずその容姿の表現ですが、鼻がでかくて目が光ってたとか。司馬遼太郎がこの形容を読んで「なんだか外人のような」と素朴な感想をどこかで書いていたような気がします。褒めているのではなく奇異な容姿として貶されている。また二枚貝に手を挟まれて海の底に沈むというかたちでぶざまな最期をとげます。

ちょっと可哀想なみじめな人が猿田彦。

このように記紀で悪く書かれている場合は、何らかの裏(事情)があると疑ったほうがいいです。

壬申の乱で大変な功を挙げていながらそれが一言も触れられていない「尾張氏」然り。
本当は日本建国の始祖王でありながら、乱暴者として酷い当て字をされている「スサノオ」然り。
(蘇我入鹿=悪人、の記述にもとてつもなく大きなカラクリが隠されているとか・・)

八島野尊とサルタヒコに関する部分を「古代日本正史(原田常治)」の中から拾っていくと、

まず、スサノオの子供達について書かれている章で

「第一子、八島野尊(やしまぬみこと)」

・この長男の八島野尊については色々調べてみたが、あまりはっきりとした事跡がない。
・長いおくり名があることでも、相当立派な人物だったことがうかがえる
・他の弟妹たちがほうぼう飛び歩くし、みんなよく動いていたので、留守番をして出雲を守っていたのではないかと想像される。

として簡単に済ませています。

一方で猿田彦については、

・大国主の時代に九州統治の責任者として出雲より西都に出張していた。
・大日霊女は猿田彦の人格に全幅の信頼を持って、出雲の政治を依頼した。
・武御名方を出雲から追放(出雲国譲り)した後の出雲の政治を猿田彦が行った。
・徹底的な民主政治、神在り月、部族長会議を行った。

と書かれています。また、

・猿田彦を祭神とした佐太神社は、(昔は)出雲の二ノ宮だった(一ノ宮はスサノオの熊野大社)

これを読むとこれだけの人の出自が不明というのはどう考えても変な(怪しい)わけです。

スサノオ亡き後の重要な占領地である九州の統治責任者に抜擢された謎の人が猿田彦
(=>スサノオの長男である可能性が高いのでは?)

出雲国譲りという難しい状況を収拾できる立場、出雲方からの大きな信頼がある猿田彦
(=>スサノオの長男である可能性が高いのでは?)

スサノオの熊野大社が一宮、猿田彦の神社が二ノ宮であったという事実
(=>猿田彦はスサノオの長男である可能性が非常に高い)

祟神天皇が三輪山の大神神社の神主として探し出した人物にオオタタネコという人がいますが、この人は出雲系(スサノオ系?、ニギハヤヒ系?)の直系の人ということで神主に抜擢されたということです。その変な名前のオオタタネコですが以前は「大+多々+ネコ」というふうに考えてましたが、これを「大田+タネコ」というふうに区切ると、サルタヒコの子孫の大田尊との関連性が見えてくるわけです。

猿田彦とは、「スサノオの長男の八島野尊があまりに立派な人だったので、その子孫である豪族の力をそぐために、そのヒーローのような偉大な人物(八島野尊)の事跡をスサノオ直系という史実を歴史から抹殺した。そのときに作り上げられたた(すり替えた)ちょっと滑稽な人物こそが猿田彦」なのではなかろうか・・・・迷宮です^^

 

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ニギハヤヒ

ニギハヤヒについて

なにから書き始めたらいいか・・・  話の切り口が一杯ありすぎて^^

宮崎監督の「千と千尋の神隠し」

物語の前半に「本当の名前を奪うことで自由を奪われ奴隷とされる」というような意味深な台詞があります。そしてクライマックスシーンでのハク龍が本当の自分の名前を取り戻すシーンでは、「わたしの名前は ニギハヤミコハク主」 その瞬間に呪いが解けて本来の姿(能力)を取り戻す感動のシーン!

その奪われていた本当の名前のなかにある「ニギハヤ」が妙に気になるんです。

今にして思えばこの台詞(名前)を聞いてドキッとしたのは、日本人の深層意識に訴えかける意図的な演出なのではないかと脚本家を疑ったりもします。^^

ニギハヤ・・  名前を奪われている古い神

昨年の年末の山之辺の道マラニックで訪れた大神神社(おおみわじんじゃ)。この神社関連する謎やエピソードについて色々知ることができ収穫が大きかったです。

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写真は、その時のもので低い雨雲で頂上部分が隠された三輪山です^^

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この神社とそのご神体である三輪山(と大物主)について調べていく過程で「古代日本正史(原田常治)」という本を発見し、「記紀以前の神社資料による古代史研究」という立場(研究の手法?)を知りました。出雲という日本建国の始祖王であるスサノオの発見、そしてスサノオの子である大歳(大和入りを機に「ニギハヤヒ」と呼ばれる)。

「古代日本正史」の”天照国照大神饒速日尊”の謎解きの一節を引用します。

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この古代調査で一番難関だったのは、古事記以前の天照大神、即ち「天照国照日子天火明奇甕玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこあめのほあかりくしみかだまにぎはやひ)」であった。日本書紀の編集者が、何とかこの人を歴史から抹殺しようと、一生懸命におとぎ話のような神話をつくってみたり、それまでの神社の古文書を書き直させてみたり、あるいは、まるまる古文書を没収してみたり、神社の祭神の名を変えてみたり、おしまいには、本当のことが書いてあった系図を没収してみたり、苦心惨憺した目的がなんであったか。
日本最初の統治者ともいうべき大和の大王、神武天皇の義父である、この天照国照大神を、どうしてか歴史から抹殺するかということに主目的があった。
・・中略
この日本書紀、古事記で抹殺された天照国照大神を、現実の人として掘りだすことがこんどの調査のヤマで、また一番骨が折れた。
・・
これを、どう調べ上げるか、掘り出すか、一時はまるで警察の刑事のような気持ちだった。

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後で知ったことですが、この謎解きの過程で登場する神社で奈良の大神神社とおなじ名前をもつ栃木の大神神社は、今年の6月に日光街道マラニックで訪れた場所でした^^

芭蕉の関連史跡、うたまくら「室の八島」の地とされている場所が栃木の「大神神社」だそうで、この神社のご祭神名が改竄された祭神名である”大物主”の他に”櫛(奇)甕玉”という名前で追記されているとのことです。同様に各地の古い神社の改竄から漏れた祭神名を調べ上げて(改竄の証拠の集めて)記紀のウソを追求しながら、ニギハヤヒの実像を追求していくという手法です。 

大胆な仮説と推論は、まじめな?歴史学者からは嫌悪され(無視され)ているようですが・・・・

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ニギハヤヒの詳細については、(スサノオと同様に)和歌山在住の山下氏による次のサイトが大変参考になります。(原田さんの古代正史寄りの立場でかかれています)

大和国 建国の始祖王 饒速日(大歳)尊
http://www.syamashita.net/history/ootoshi/

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スサノオ

006今年の春から旧日光街道マラニックということで東京から日光にむけて何回かに分けて走っています。Jognoteのラン友と一緒に松尾芭蕉の奥の細道を辿るマラニックに同行させていただきながら、旧日光街道沿いの史跡を訪ね歩いて(走って^^)いるわけですが、その第一回目、スタート地点として集まったのが千住のスサノオ神社でした。

ご祭神であるスサノオ、つい最近まで教科書的(常識的)な知識しかありませんでした。教科書(古事記)で紹介されているスサノオは、だいたい次のような感じです。

・・・イザナキの命が黄泉の国のけがれを日向の阿波岐の原で清めるとき、左の眼を洗うと、天照大神が生まれ、鼻を洗うとスサノオが生まれた。天照大神は太陽の女神で皇室の先祖であり、高天原を治める。ところが嵐の神スサノオの命は、山が枯れ、海が乾くほど泣きわめいてばかり。亡き母のいる根の堅州国に行きたいと言って、イザナキの命に追放されてしまう。・・・

この後、ふたたび姉の天照をたずねてきたスサノオは、暴れるわ、神殿に糞をぶちまけるわ。困り果てた天照は岩屋に籠っちゃった・・・・というふうに続きスサノオは高天原を追放されてしまいます。ところが出雲に行ってからは大活躍!ヤマタノオロチを退治して一躍英雄になるという物語がつづきます。

出雲での活躍がなかったら粗野で野蛮な暴れ者といった印象しか持てないのがスサノオなんです。

ですから、スサノオ神社の縁起を読みましても、好意を持てないというか、ピンと来ないというか、なんだろな~くらいの気持ちにしかなれないわけです。暴れ者のスサノオが天王様? ふう~ん・・・・?007

ところが、この古事記や日本書紀(記紀)といった歴史書は、ある明確な意図をもって書かれており、記紀を編纂した側(当時の権力者)の意図があるようです。自らの正当性を確立するための敵対する相手の真実の隠蔽。律令国家の体裁を整えるための見栄をはるための誇張。そこらへんの事情を考慮して(眉に唾をつけて)読まないといけない・・・ということですね。^^ 

記紀が編纂されたときの時の実力者である藤原不比等がかなりの影響力をもって歴史の改竄を行った疑いがある? ということらしいです。

だからと言って記紀にかわる文献資料が他に残っているかというと、あれだけの情報量をもった現存資料は無いわけで、記紀を読む人によってそれぞれの解釈が成り立ち諸氏百説が成立する訳で、気がつくと古代史の迷宮へ・・・・・

ところが、この記紀によらない探求、古事記や日本書紀以前の現存する文献からのアプローチ、具体的には神社の記録からのアプローチといったものを提唱された方がおられたということを最近知りました。

■記紀以前の資料による「古代日本正史」(原田常治) 昭和51年初版

Kodainihon 偶然にも地元の図書館で見つけて読んでみたんですが、これが面白い! 

いままでのモヤモヤが雲散霧消するような快感を覚えました。(ただ、原田常治氏をネット検索してヒットするサイトの書き込みを読んでみると、あまり良く書かれていないサイトが目についたりもしますが・・・法螺吹きおじさんとか? 賛否両論というような本(人)のようです。 )

実際に読んだ感じとしては、ちょっとその面白さは他に類を見ない!というのが私の印象でした。そしてこの本を読んで180度印象が変わったのが スサノオ でした。(スサノオ以外にも驚きと発見の連続でしたが^^)

スサノオについては(原田さんの古代正史寄りの立場でかかれた)次のサイトが参考になります。

建国の始祖王 須佐之男命

http://www.syamashita.net/history/susano/

また、おなじ人がかかれた日本書紀を捏造した疑惑の大岡裁き^^ めちゃ面白いです。

http://www.syamashita.net/history/kodaishi/saiban/index.html

古代日本正史を読んで新たに知らされた驚きの事実が(断定していいかどうか微妙ですが^^) ニギハヤヒ ♪ また別の機会に^^

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古代史の迷宮 プロローグ

去年の暮れ頃から旧街道マラニックと称しては、大和路の古道や地元(日高市)の鎌倉街道や日光街道などを散策しています。司馬遼太郎の歴史ものなど嫌いではないので、マラニックの途中で立ち寄った神社や古墳などの史跡旧跡について調べながら楽しんでいます。調べるといっても、その時代を背景にしたマンガとかだったり小説だったり。 もうすこし詳しく知りたいときには Google♪ wikipediaなど。 便利な時代になったもんです^^

ところで、聖徳太子以前の歴史となると諸氏百説で、なにがなんだかさっぱりわかりません。(聖徳太子の実在性も怪しい?との説があるくらいです)

解らないながらも強烈に惹かれる何かがあるようです。解らないからこそ面白い?  

以下、古代史に関して、混乱した頭の中を整理するためのものとなります。

■古代史の迷宮 プロローグ

ずいぶん昔のことですが「建国記念日と愛国教育」という題の講演会を聞いたことがありました。 学生時代のことで学食の建物の談話室のような小さな会場で50人にも満たない聴衆(学生、教師)を前にして、教育学部の教授(助教授?)のような方が講師だったと記憶しています。 
主旨としては、
日本人は敗戦して以来この問題について非常にナーバスとなっており国を愛する教育というと右翼という捕らえ方をしてしまい、このことに取り組めていない現実がある。
子供を教える教師となる若者を指導する立場の者として、この問題にどう取り組むべきかは大きな関心事である。
愛国教育、国を愛する教育というのは、家族を愛し、近隣郷土の人々を愛しむ延長上のことであり、決して悪いことではなく、そのような情操教育は必要である。
ところが愛国心というと、とたんに拒絶してしまう。何故か? 
それは戦時下において、これが利用された経緯があり、その悪しき記憶が抜け切らないからである。 帝国主義的愛国教育。軍国主義的愛国教育。
この ~的 な部分が問題なのであって、国を愛する教育は子供たち必要である。

以上が論旨だったように記憶しています。(もう30年も経ったのか~ orz 苦笑)

この「国を愛する教育」の中で「歴史教育」、それも戦前は神話として教えていた「日本の古代史」の部分をどう教えるか? これは重要な課題になっているような気がします。

もうひとつは、地元(毛呂山)のあるお寺さんに関するお話。
そのお寺は奥武蔵ウルトラマラソンのコースのすぐ近くにある「桂木寺(桂木観音)」です。ハイキングをしていた偶然通りかかったときに、お寺の縁起を読み、素朴な感銘を受けたところから始まります。縁起によると、8世紀の初め頃に行基がこの山を訪ねたときに不思議な体験をして、その感動がきっかけで木彫りの観音像を残したのが縁起であるとのことでした。
その時は(今もあまり大差はありませんが)歴史に詳しい訳ではなく、行基がどういう人物なのかも良く知りませんでした。縁起の内容が良かったので知り合いの先生(高校の歴史教師)との会話の中で話題に持ち出したら・・・・徹底的断定的に否定された orz

「行基が関東に来たなどは記録にない。」 「歴史にロマンを求める必要なし。」

あまりにも強烈に否定されたのでケンカ別れのような形になっており、その後その方とは会っていないのです orz

この出来事ですが、ある意味では古代史をめぐる諸氏百説という状況の中での構図(縮図)のようなもの感じたりします。

なにはともあれ、歴史ものが好きになったきっかけともいえるふたつのエピソードでした。 ^^

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