古代史の迷宮

川ランナー(変わらんなー?)

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橋ランナー(走らんな~) 川ランナー(変わらんな~) 丘パドラー の紀伊九郎のブログということで始めたブログです。

最近の状況はということ、ランニングについては夏前にギックリ腰をやってしまった頃よりモチベーションがガタ落ち状態で、月間走行距離(練習量)は、ほぼゼロです。

川ランナーについてはどうかというと、ベニヤ板でカヌーを自作し、そのカヌーで古代の舟運で使われていたであろう川の道を辿ろう~という当初の目論見はどこえやら。 軒下に保管されている(放置されている)ベニヤカヌーのマリリン号は朽ち果てる寸前。文字道理の丘パドラーですが。

ところで、トップの写真は、先日、姉(「たちはな亭」)と一緒に訪ずれた土浦城博物館に展示されている高瀬舟です。同博物館では霞ヶ浦および土浦、利根川、舟運といったことについて展示されていました。同館に展示されていたパネルを何枚か撮影しました。


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というわけで、利根川の舟運について興味をもったので、ここ何日か、ネットであれこれ調べています。

利根川という川は、昔から(現在のように)銚子の方に流れていたのではなく人工的に流れを変える工事(瀬替え)が(江戸時代に)行われたというのは以前から知ってました。(寄居の川の博物館でも展示紹介されていました。)

それまでは東京湾(江戸湾)に流れ込んでいたが、その工事がなされる前の(古代からの)霞ヶ浦とかの水郷地帯あたりに、今よりも遥かに大きい内海が広がっていた。

東海道の終点である常陸国(現在の茨城県石岡市)へ至る最後の行程は、房総半島の外海(太平洋)を経由するのではなく、現在の江戸川とか、手賀沼、牛久沼あたりの巨大な内海を経由して辿り着いた・・・。東海道、東の海の道。海とはいいつつも太平洋ではなくて、内海(うちうみ、川とか湖沼)だったのか? ヤマトタケルの時代の東海道の経路は、どうだったのか? 興味がつきないです。 ※リンクはネットで知ったその道のプロ?の方のブログとかHP

江戸時代に行われた瀬替え(河川改修工事)についても、その目的は治水(洪水対策)や灌漑(農業用水確保)であるよりも、利水、舟運のための安全な水路整備であったかも? ということらしいです。

現代(明治期)においても江戸川と利根川を結ぶ運河が開削され、物資の船舶による輸送経路の整備が行われたということです。(利根運河) ただし、これは鉄道輸送の発達により廃止されたようですが。

言い換えれば、鉄道輸送という革新的な輸送手段が発明されるまでは、舟運がもっとも効果的効率的な輸送手段であり、ヤマトタケルさんの(古事記日本書紀の)時代から明治の初期に至るまで(1700年近く)変わらぬ風景であった・・・ということ。

長い、長~い、前置きでしたが、何が言いたいかというと、本日、(長女を連れて)利根川を散策してきました。w

「お~い、関宿城博物館に行って、利根川の舟運などについて見学しに行くけど、行く?」

「行く行く」

で、1時間かけて、・・・

なんと、予想外の臨時休館日 orz
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ヤマトの「武」の情景(14)

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久々です。(このカテゴリー、まだ生きていた?w)

八郷盆地の丸山古墳のお話です。
崇神天皇の皇子で東国(木国=毛国?)に派遣され、東国の開発の礎になった豊城入彦命がそこに祀られているという伝承がある?とのことです。
豊城入彦命(豊木入日子命)については、かつて記事にしたことがあります。
http://yellow-black.cocolog-nifty.com/tabi/2012/02/post-4432.html

八郷(やさと)という地名については、最近なんども耳にしていました。一昨年頃から、ダーチャ(ロシア式週末農園別荘?)を筑波山の麓、常陸の国の某所に取得した姉(の「たちはな亭」)の手伝いを何度かしていますが、そのダーチャ横丁の住人(お隣さん)の方が八郷盆地が出身地とのことです。

そして八郷盆地の果物が素晴らしいということで、フルーツラインなる一年中果物狩りができる(かもしれない)道があるとか、その近くにあるフラワーパークで買った宇宙芋がどうとか、茅葺屋根の旧家が沢山残っていて観光名所になっているとか、面白い(時事?)ネタとしては、フィギュアスケートで有名な羽生弓弦君の出身地(かと思わせるような地名)があったりw
なんだか、カオスな香り漂う妖しげな土地のようです。「たちはな亭」さん、なんどもこの地名を連呼してその素晴らしさを主張されていたように思いますが、 え? なに?なんなの? いまいちピンとこなくて、気に留めることなく過ぎていました。

ところで、手伝いのついでにちょっとだけ観光を・・ということで、筑波山に登り、筑波神社に詣でたときに、山門に仁王像よろしく、マイヒーローのヤマトの「武」と、豊木入日子命のブロンズ像があり写真を撮りました。それがトップの写真、左が「武」で右が「豊木入日子命」です。

以下、由緒書きです。

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豊木入日子命の内容を以下に(そのまま)引用します。
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豊木入日子命
筑波山に縁り深い古代武人の一人で第十第崇神天皇の皇子である。命が或る夜大和国みもろ山に登って東に向かい刀と槍を各八回振る様を夢見られ天皇は霊夢の謎を解き給いて命を東国(木国)に遣わし給う。命は永くこの地を治められ筑波の里で神去り給うたがご遺徳を慕う山西の民により宇都宮二荒山神社に祀られて下毛君 上毛君の祖と仰がれた。五世紀頃山東の柿岡に栄えた佐自奴君(さじぬのきみ)もまた同族である。
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霊夢と謎解きの話は記紀に記述されている有名なお話です。宇都宮の二荒山神社には実際に参拝しています。注目すべきは、「~永くこの地を治められ筑波の里でお亡くなりになって(神去り給うて)~ 柿岡に栄えた佐自奴君(さじぬのきみ)もまた同族 ~」の下り。

お亡くなりになったということは、その御陵なり古墳なりが伝承されているかもしれない?

明確な地名「柿岡」について調べると、地理的には現在の石岡市柿岡町は八郷盆地のほぼど真ん中、筑波山からみて山東に位置したところにありました。
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地図でみると、柿岡地区の中に丸山古墳とあり、拡大してみると「佐自奴君」の氏神であろう神社、佐志能神社もありました。さらに調べると

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※詳しい探訪記など見つけました↓
http://blog.goo.ne.jp/hanako1033/e/981518985f4f38ca0d29e3717c495c37
(「ビーズうさぎのハナちゃんです!」より)
(Google! 現地に行かなくてここまで情報収集が出来るっていいね!)

古墳の発掘調査によって発見された副葬品については、柿岡博物館に所蔵されていると書かれていますが、近くの中央公民館に展示されたりもしているようで、Googleで展示物の写真を確認できました。

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http://www.city.ishioka.lg.jp/page/page000826.html
前方後円墳の前の形式である(かなり古い)前方後方墳であること、副葬品に畿内(大和、奈良)の影響を受けたであろう特徴が色濃く見られること、何よりも伝承としてハッキリと豊木入日子命の奥津城(御陵)であると語り継がれており、古墳が荒らされることなく大事に残されているとのこと。

それにしても、豊木入日子命の副葬品である可能性のある(史料価値の高い、一級品の副葬品である発掘資料の)鉄剣とか勾玉とか鏡とかを、こんなセキュリティーの甘い(簡単に盗難されそうな?)公民館のロビーに展示してある?! ちょっとした驚きです。国宝級の資料のような気がするのですが。
その価値が判ったいない(世間一般に知れ渡っていない)今こそがチャンス!?
(すぐ近くで見れるチャンス!って意味ですよ!w)
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数年前のこと、毛国巡りということで群馬県の大きな古墳を探訪しながら豊城入彦命の御陵を探したことがありますが、このときに訪れた古墳については根拠乏しく名乗りを上げたもん勝ち? のような無理やり感の強い”治定”であったり、明らかに時代がズレているような説明であったりしました。
http://yellow-black.cocolog-nifty.com/tabi/2012/02/post-8388.html
http://yellow-black.cocolog-nifty.com/tabi/2012/02/post-f66b.html
http://yellow-black.cocolog-nifty.com/tabi/2012/03/post-6134.html

実は、毛国よりも、常陸国のほうが古いかもしれない? (当時においては先進的、先に開拓された、関東開拓の拠点だった!) 毛国(群馬、栃木)ではなく、常陸(茨城)にある古墳のほうが、豊城入彦命の陵として妥当性が高い?

東海道とは、今でこそ陸上の道を思い浮かべるが、そもそもは海の道であり、その終点が霞ヶ浦を経て上陸する場所である常陸国の(筑波山の山東の方向にある)石岡市あたり・・・。
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これは、当たり! かもしれない?(豊城入彦命の陵として)

ヤマトの「武」が東国を遠征するもっと前に、すでのこの地には崇神天皇により四道将軍が遣わされたり、豊城入彦命が遣わされており、それらの(開拓の)先人があったからこその、ヤマトの「武」の東国遠征であったということですね。

ところで、筑波山という山を、これまでは陸から、関東平野の西側(埼玉)から眺めて、近づいていきながら、特に感慨もなく・・・だったのですが、
古代の人、東海道を「海の道」として使っていた頃の人たちにとってのこの山影は、旅の終わりを告げる象徴的なシンボルだった?

東海道を、太平洋の海路を遠路はるばる航海してきて、ときには太平洋の荒波を受けながら、やっとのことで霞ヶ浦の穏やか流れに進みゆき、ようやく到着した東海道の終着点である常陸の国府に近づいてきたことを知る。そして、目前には特徴的な筑波山の山影があり、その山影が近づくことで、旅の終わりを感じ、航海の無事を感謝した・・・

古代人にとっての筑波山に対する感慨は、海(霞ヶ浦)側から見たときの、旅の安全の感謝を込めたものだったかも。

ヤマトの「武」も、ようやくたどり着いた霞ヶ浦の津(みなと)からこの山影を臨みつつ、旅の無事を(実は、オトタチバナは無事でした^^;)感謝したことでしょう。
丸山古墳のある丘の神社、佐志能神社の御祭神には、しっかりとヤマトの「武」、すなわちヤマト「武」も祀られているようです。
http://www.genbu.net/data/hitati/sasino3_title.htm

ところで、トップのヤマトの「武」の銅像、カッコいいですね♪
(秩父の三峰神社のそれが・・ちょっとねぇ~ ^^;)

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ヤマトの「武」の情景(13)

 
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このシリーズ、このカテゴリーも随分と久々のことなんですがw
ヤマトの「武」こと、いわゆる日本武尊(ヤマトタケル)であり、そして真実を抹消された成務天皇であり、そして晩年は武内宿祢(タケタケウチノスクネ)であるところの3人に分けられてしまった一人の「武」さんについて。
実は、ここ2~3年、姉の「たちはな亭」の引っ越し手伝いやら荷物運びやらを不定期でやっとりますが、なんでも筑波山の懐の某所にちっちゃな土地を取得したとのことで、ロシアの週末の農業別荘(ダーチャ?)よろしく、土に親しむ生活を始めたいとか・・・
いいんじゃない? (実りのおすそ分けをヨロシク~^^)
そんなこんなで、茨城(むかしふうに言うなら常陸国)を散策して大きな古墳を訪れたりしました。そして常陸国風土記には、なんと、走水の海で海中に身を投じて亡くなったはずのタチバナ妃と仲睦まじく登場するヤマトの武がおるそうで・・
そして、倭(ヤマトの)武「天皇」として書かれている!?
石岡市にある神社、常陸国総社宮は手塚治虫の虫プロとコラボして「火の鳥」に登場するヤマトタケルを大きく境内の某所に展示してる?(トップの写真は常陸国総社宮のHP)
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倭武天皇(ヤマトタケル)の腰かけた石がある?
俄然!面白くなってきました。^^
「風がつよく吹いている」という箱根駅伝を舞台にした小説で有名になった三浦しおんさんのお父様、三浦佑之氏が書かれた「風土記の世界」(岩波新書)から引用
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常陸国風土記にみられる倭武天皇の伝承には、古事記や日本書紀と関連する話は一つもない。本風土記の選録時には日本書紀は成立しておらず、古事記は律令国家にとって公式の歴史書としてあったわけでなはい・・(中略)・・大橘比売という后の名が、古事記や日本書紀のヤマトタケルを連想させる程度である。同様に皇后とともに巡幸するという記事は、久慈郡助川の馬屋や多可郡飽田村にもあり、タチバナという名の后とともに旅をするというのが倭武天皇の定番と言えそうだ。その点で古事記や日本書紀に重なる部分を持つが、常陸国風土記の伝承には、走水(浦賀水道)における遭難と妃オトタチバナヒメの死という古事記や日本書紀の伝承が伝える死の影はまったく見いだせず、穏やかな旅が語られているという印象しかない。
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と、ここまで引用して、ふと気づいたことは、
ヤマト武「天皇」の妃の名は、 弟橘(オトタチバナ) ようは タチバナさん?
最近、タチハナ亭さんが茨城県(常陸国)をやたらに気に入って喜んでいた訳が、やっと今判った!w
 
 
 
 

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三峰神社

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三峰神社に行って来ました。
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こちらは三峰神社バス停、神社の駐車場の様子です。
秩父の山奥のそのまた奥、よくぞこんな山の中に、こんな立派な! というのが率直な感想です。今でこそ、道路は整備され、公共交通機関(鉄道、バス)を乗り継げばさほど苦労することなくたどり着けますが。
今回、三峰神社を訪れた理由は、雲取山への日帰りピストン(山行)の下見を兼ねての参拝(雲取山の登山口としての三峰神社)でしたが、神社そのものがとっても面白く、一説によると関東最強のパワースポットとの呼び声も高いとのことです。
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駐車場から階段を上がって神社の参道の方向に歩いていくと大きな茶店(土産物屋)があります。その前方にトップの写真、独特の雰囲気のある三つ鳥居、その横には博物館がありました。鳥居の脇にあった神社の由緒書き、ピンボケ写真でよく判別できませんが、説明板のうえに大きく口を開けたオオカミがいます。
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鳥居をくぐって参道を歩くと、右側に大きな石碑が立ち並びます。「講」の寄進を記録したもののようですが、そもそも「講」が何を意味するものか、どのような集団、活動であるか、具体的イメージがありません。
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参道を登りきったところ、左方向にきらびやかな山門が見えました。随身門とのことです。
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デラックスです。^^
門をくぐりもう少し歩くと、精悍なオオカミと金属製の鳥居が見えてきます。
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鳥居の両脇の建物、手水舎と灯台だそうですが、非常に派手で細密な彫り物で江戸時代に寄進されたもののようです。鳥居も。
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境内の一段高まった場所、本殿に向っての石段の両脇に大きなご神木があります。ミスター鎌倉武士、畠山重忠寄進によるところだそうです。
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ご本殿、中から太鼓の音、ご祈祷されている神職の方がおられました。
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それにしても日光東照宮のような豪華絢爛な彫り物ですねぇ~
本殿の左の方向に進むと宿泊施設(温泉)がありした。参拝客(信者)の宿泊施設のようですが、近代的な大きなホテルです。日帰り入浴も可能・・・な日もある?^^;
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参道を元来た方向に戻っていくと、さきほど左折した場所の上のほうに気になるものが・・・
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マイブーム、ヤマトの「武」(日本武尊)さんです。^^
記紀編纂委員(藤原不比等)によって事実を改竄され、スーパーヒーローとして夭折(白鳥化)した英雄であるヤマトタケるとしてドラマチックに描かれ、後半生は(ヤマトタケルとの繋がりを打ち消すように)超長命の謎のジジイであるタケウチノスクネとして別人のように描かれた(その実体は)すべての史実を剥奪されて架空の存在とみなされている第13代天皇(成務天皇)ということです。ホントか!?^^
この銅像、お顔はカッコいいんですがバランスがイマイチだなぁ~ 異様に手が大きいw

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神幸祭

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川越祭り(秋祭り)を見に行ってきました。
川越祭りというと、壮麗な山車ばかりに目がいってましたが、本来は川越氷川神社の秋祭りということで、神事あってのお祭りです。
川越氷川神社の御祭神を依り代(神輿)に移し行列する「神幸祭」の最後尾に宮下町(氷川神社の町内)の山車が従っていましたが、この神幸祭行列そのものがとっても魅力的でした。
行列の先頭から写真紹介です。
1.太鼓
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2.氏子総代及び特別崇敬者
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3.小幡と五色(吹流し)と社合旗
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4.榊
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5.四神旗
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6.猿田彦
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7.赤獅子、青獅子
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8.楽人(ショウジン)
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9.箱?、神職
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10.巫女
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11.神輿(彦神)
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12.神輿(姫神)
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13.神馬
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14.氷川神社総代(宮司)と傘持ち(朱傘)
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15.斎姫輿(いつきひめ輿)と付き巫女
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16.山車
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最後尾の山車は、神社の所在となる宮下町の山車となります。蔵造りの通りでは隠れていた(電線を避けるため)人形も市役所前では完全に姿を見せています。
マイブーム?日本武尊(ヤマトタケル)です。^^
最近、仮装した行列といえば某外国から来たテーマパークの華やかな行列(パレード^^;)が身近ですが、こちらの行列もなかなかに味がある!
良いものを観れました。
 

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仁徳天皇稜は

Nintoku

さて、古代史の迷宮、ヤマトの「武」について、なかなか先に進めないので、いっきに結論。

いつかはたどり着きたかった結論を。 

ただし、結論に至る過程は一切ありません。

好き勝手な妄想です。^^;

ヤマトの「武」こと、いわゆるヤマトタケルは、タケウチノスクネと同一物であり、しかも成務天皇その人であったとしたら、これはもうスーパーヒーロー以外のなにものでない、すっごい人。(というに心酔しております。)

そんな、とっても凄い人が、蘇我氏の祖であったというのは蘇我入鹿を倒してクーデターを成功させた藤原鎌足、藤原不比等にとっては、なんとしても隠蔽したい歴史だったろうな・・・という訳です。

成務天皇の事跡をまったく記紀には記載せずに、あたかも架空の人物として扱われるようにしたり、あえてヤマトの「武」、「武」ウチノスクネというふうに名前を区別して、そこに二人の人物が居るかのごとくしてみたり。

であるならば、陵墓、古墳についても・・・

宮内庁が現在、天皇稜としてお祭り(行事)をおこなっている根拠は、江戸時代の学者さんが調査して、たぶんそうじゃないか・・というくらいの根拠のもとに決定したそうで、
最近の考古学的な発掘で、別の(天皇稜でない)古墳が、天皇稜であるとの決定的な証拠が発掘されたとしても、墓碑銘などが出てこないかぎり、現在のそれを改めることはない・・との態度をとっているそうです。

ということで、考古学会的には、仁徳天皇稜、ピラミッドよりも大きく世界最大といわれるこの古墳は、最近では大仙山古墳と教わるそうで、その被葬者が仁徳天皇であるとは証明されていないようであっても、宮内庁的には仁徳天皇稜としてゆるぎない? ^^

ただ、仁徳天皇の時代のこと、仁徳天皇の指揮によって、仁徳天皇さんがおじいさんである武ウチノスクネ(成務天皇)の陵墓をつくった?・・・というようなことを考えてみると・・・、

仁徳天皇稜は、実は、成務天皇(=ヤマトタケル=タケウチノスクネ)の陵墓なのではないのか?

こう考えるてみると、なるほど、さもありなん!?

紀伊九郎的には、とっても納得できるわけです。

あの大きさに該当する事跡を成し遂げた人物が他にいるか?

7世紀に律令制が成立するはるか前に(4~5世紀?)、古代の地方行政区分である国造の大半の成立に関わったとされる成務天皇(=ヤマトタケル=タケウチノスクネ)であるならば、しごく当然?すっきりと納得できるわけです。

青年時代からヤマトタケルとして大人気のヒーロのためなら、全国から(喜んで)人手が集まったことでしょう。

ハイ、まったく根拠はありません。妄想です。^^;

ところで、ニントクという登場人物(古墳?)が出てくる、おもろいアニメがあったなぁ~ 笑)

 

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ヤマトの「武」の情景 (12)

前回このカテゴリーでネタにした マンガ「ヤマトタケル」の作者、漫画家の安彦良和(やすひこよしかず)さんと 「ヤマトタケるに秘められた古代史」の著者の崎元正教(さきもとまさのり)さん、昨年の11月の3に鳥取のほうの講演会でご一緒(講師)されたそうです。^^

いいですねぇ~ 事前にわかってたら参加したかったんですが、ちょっと(かなり)遠いなぁ・・・

http://www.tbz.or.jp/inaba-manyou/index.php?view=4311

http://www.tbz.or.jp/inaba-manyou/index.php?view=4310

さて、またまた、超久しぶりになってしまった本カテゴリー、ヤマトの「武」さんですが。そろそろ熊襲退治(西征)に出発していただかないと話が進まない? ^^;

以下、古事記の記述をメインにしながら日本書紀での相違点を説明しているヤマトタケルの西征の物語について、wikiの記述を引用します。

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■西征
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<古事記>
父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は素手で兄をつまみ殺してしまう。そのため小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭姫命が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
<日本書紀>
兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとあり、倭姫の登場もなく、従者も与えられている。
<先代旧事本紀>
(景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令擊熊襲 時年十六 按日本紀 當作二十七年[7]とあるのみ。
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<古事記>
九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。
<日本書紀>
熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記。
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~~ (wikipediaより http://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマトタケル)

誰でも知っている有名なお話ですが、古事記のそれはことさらにドラマチックな仕上がりになっています。悲劇の主人公的な?

この女装して熊襲の長である川上タケルをやっつけるシーン、もし事実であるならば九州のどこらへんでの話しなのか? 以前は熊襲という言葉から何となく熊本あたりの山の奥の方を考えていました。手塚治虫の「火の鳥」の印象のせい?^^;

実際の場所、地名の伝説として、上の物語よりももっと具体的でトラマチックに伝承されている場所(お話し)があり、その場所は佐賀県佐賀市のあたりのようです。
川上タケルにちなんだ「川上峡」とヤマトタケルにちなんだ「大和町」、敵の川上タケルが「待て!」といって斬られる前に制止したので「真手」

「真手」について、佐賀県佐賀市の文化財データベースのホームページの記述を引用します。

~~
■川上たけると真手
第13代景行天皇の第2皇子日本武尊は始め御名を小碓尊といっておられた。このころ筑紫(福岡県)を根拠地にして北部九州地方をおびやかしていた熊襲という豪族がいた。九州全土を征服して各地の穴ぐらに陣を張っていたが、その威勢に恐れて誰一人刃向う者がいない。そこで天皇は皇子小碓尊に熊襲征伐を命じられた。これが西紀82年12月でこれを平定するまでには凡そ6年間かかったという。小碓尊は英智と武勇にすぐれた方で、弟の彦王を大将とし武内宿禰を補佐役として筑紫の穴ぐらの本陣を攻めことごとく平げたが、その時、頭の熊襲たけるはいち早くどこかへ逃げ去ってしまった。あとで、川上へ逃げ込んだといううわさがあったので、尊は筑紫から舟に乗って肥前の堀江(神野町)に一たん寄港してから、さらに舟を蛎久まで進めここで上陸され、熊襲残党の隠れ場所をひそかに確められた。そのころ大願寺の山中で里の娘たちを大ぜいかり集め大酒宴を張っている者があり、それが熊襲であることがわかった。智謀にたけた尊は女に変装し、夜陰に乗じて里の娘たちの中へまぎれこまれたが誰も気付かない。尊は家来たちに酒をつぎながらも熊襲の頭から目を放さず、次第に酔いが回って座が崩れかかったころには、高枕でうつらうつら眠り始めた。ころはよしとばかり尊は「起きよ、熊襲っ」と叫びざま枕をけとばされた。はっと目をさました頭は上半身を起こして「何やつだ」と叫び、あわてて枕もとの太刀に手を伸ばした。それを取らせてなるものかとさっと一太刀浴びせて「われこそは筑紫で見参した小碓尊だ。天下をわが物顔に騒がしたふらち者め、これが天罰の制裁だ」
と振り上げた二太刀目がみごと頭の急所にきまってその場にどっと崩れ伏したが苦しい息の下から、「われこそは日本一の武勇者として誇り続けてきたが、われ以上に尊のような智勇権謀者のいることを知らなかった。尊こそはまこと日本一の武勇者なれば以後は日本武尊と尊称し奉る。われはこの川上の土地の名をもって姓を改め川上たけると称せん」
 といって息絶えたという。また、尊が二の太刀を浴びせようとした時「待て、われこそは………」といったことからこの辺を「まて村」つまり「真手」という名がつき、現在もその名が残っているという。
そして現在の健福寺の位置より約1kmほど北に最初行基菩薩が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという。

~~ (http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2325)

多分にドラマチックで?な部分もありますが、古事記の記述よりも実際的、具体的な部分も感じられます。

~~小碓尊は英智と武勇にすぐれた方で、弟の彦王を大将とし武内宿禰を補佐役として~~
の部分については、記紀では行軍の事実をまったく触れられていない「武内宿禰」の名があがってます。もちろん私としては小碓尊=武内宿禰として解釈します。

そして、敵の頭目である川上たけるとその勢力についての記述もかなり具体的です。記紀の説明ではいきなりの奇襲作戦で退治するようなことになっていますが、ここでの記述を読むと、女装しての奇襲作戦については残党狩りの最後の最後の場面となっています。

~~筑紫の穴ぐらの本陣を攻めことごとく平げたが、その時、頭の熊襲たけるはいち早くどこかへ逃げ去ってしまった。あとで、川上へ逃げ込んだといううわさがあった。尊は筑紫から舟に乗って肥前の堀江(神野町)に一たん寄港してから、さらに舟を蛎久まで進めここで上陸され、熊襲残党の隠れ場所をひそかに確められた。~~

この堀江(神野町)ですが、現在の堀江神社にも同様の伝承が残っているそうです。

~~「小津河上タケル一党の暴挙がやまないので人民が訴えた。そこで景行天皇の勅命を受けてやってきたのがオウスノ命(ヤマトタケル)で、彼は平戸まわりでこの地に着岸し、賊党をやっつけた。云々」~~

ここらへんを書き進めるにあたっては、一度現地に行ってみて、写真を交えながら紹介したいけど・・・・ちと遠いなぁ~~ orz

九州のここらへんでおこなわれるマラソン大会に参加がてら・・・

福岡国際? ぜったい無理 苦笑)

別府大分? エントリー資格の3時間30分以内の記録は・・・ちょっとハードルは高いが頑張ればなんとか・・・無理? ^^;

ちょっと場所が離れるけど、宮崎県の太平洋青島マラソンがいいかな? ^^

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NHKスペシャル「二つの遷宮~伊勢と出雲のミステリー~」

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新年、お正月に相応しい番組がNHKで放映されていました。

マイブームど真ん中! とっても面白い内容でした。番組についてネット検索したところ、全3回シリーズの第3回目を見れたようです♪

例によって?リンクが切れる前にちょっとだけ(ほとんどすべて^^;)引用します。

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第1回伊勢神宮 ~アマテラスの謎~ (1月1日放送)

(専任ディレクター:池田)

日本の歴史をひもとく

E26_img02_2 伊勢神宮で式年遷宮が始まったのは1300年前。“日本”、“天皇”という言葉が使われ始める国家の激動期、藤原京を造営した女帝・持統天皇でした。遷宮といえば社や神宝、装束をすべて新しく作り直す儀式として知られ、伊勢神宮では20年に一度のペースで繰り返されてきました。日本という国家と天皇制の永続のために始められたと考えられていますが、1300年もの間受け継がれてきた歴史は、市井の人々にも大切にされ、私たち日本人の精神に寄り添ってきたものであることも語っています。しかし、このように古くから日本人とともにあった儀式でありながら、そこに深い意味が込められていることをご存知の方は少ないかもしれません。

E26_img01_2 番組では2013年に行われた20年に一度の遷宮を機に、1300年続く儀式に迫るべく、2005年から8年にわたって諸祭・行事を取材。儀式のための準備も含めた貴重な映像をご紹介します。“言挙げせず(言葉にして言わないこと)”の精神で神秘につつまれていたアマテラスと伊勢神宮に“遷宮”を通して迫るとともに、神職の方々が列を成してご神体を移す“遷御の儀”についての新たな見解を提示。日本人のルーツ、古代の日本の歴史をひもといていきます。

美しく貴重な映像をふんだんに

E26_img03 8年をかけておこなわれた諸祭・行事、そしてクライマックスとなる遷御の儀は、映像でご覧になっても厳かな雰囲気を感じていただけると思います。映像技術が進んだことで高感度カメラによる美しい映像でご覧いただくことができるようになりました。また、映像美という点では参道に連なる樹齢数百年の巨木、社殿を囲む鎮守の森など、命豊かな自然もふんだんに織り込み、ゆったりとした気分で番組を楽しんでいただければと思っています。

また、アニメーションで再現する神話も見どころのひとつです。知っているようで知らない神様たちのお話を、平泉成さんの語りで身近に感じていただけるのではないでしょうか。

E26_img04 天皇家の先祖アマテラスを祀る社をなぜ建て替えるのか?なぜ、20年に一度、繰り返されてきたのか?など、さまざまな角度から“遷宮”にまつわる謎に迫る「第1回 伊勢神宮 ~アマテラスの謎~」。

元旦の朝、改めて日本の草創期に思いをはせていただければ幸いです。

第2回 出雲大社 ~オオクニヌシの謎~ (1月2日放送)

(専任ディレクター:八木)

60年に一度の遷宮

E26_img05 第2回で取り上げる出雲大社で遷宮が行われるのは60年に一度。伊勢神宮の場合は隣に同じ本殿を建てて御神体を移すのですが、出雲大社は御神体を拝殿に移して本殿を修理します。修理は約5年を要する大がかりなもので、松江局でも2008年からその模様を撮影してきました。番組ではこうした修理の過程はもちろん、2013年5月10日に行われた本殿遷座祭を中心に、普段は見E26_img06 ることのできない本殿内部の美しい天井画などの貴重な映像をたっぷりと紹介。さらに出雲の神・オオクニヌシにまつわる神話「国譲り」をダイナミックなアニメで表現し、一地方である出雲の地にこれほど大きな社が存在するのはなぜなのか、旧暦の10月になると全国の神々が集まる理由は何なのかを解き明かしていきます。

様々の顔を持つオオクニヌシ

出雲の神・オオクニヌシは国造りの神、縁結びの神など、いくつもの顔を持ちます。そしてまた朝廷も恐れるほどの強大な霊威を持つ神でもあることが知られています。そのオオクニヌシに1300年前から仕えてきたのが出雲国造家(いずもこくそうけ)。代々、出雲大社の宮司を務め、今回の遷宮をとり仕切ったのは84代目でした。

出雲国造家はアマテラスの息子のアメノホヒという神様の後裔で、宮司さんは現在でも特別な部屋に入り、特別な火で作った食事をとって身を清めるなど、日々の祭り事を欠かしません。番組ではそうした姿も追いながら、「古事記」の出雲神話を読み解き、遷宮で注目を集める出雲大社の本当の姿をお見せできればと思っています。

前回行われた遷宮の資料は一部火事で焼失しており、写真も数点しか残っていないなかで行われた出雲大社の遷宮。そこから読み解ける出雲大社とオオクニヌシの物語に古の日本を感じていただければと思います。

第3回 二つの遷宮 ~ 伊勢と出雲のミステリー ~ (1月4日放送)

1日と2日に放送した、シリーズ遷宮「第1回 伊勢神宮~アマテラスの謎~」と「第2回 出雲大社~オオクニヌシの謎~」。「日本」という国の始まりを紐解くその2つの神話には様々な接点があります。『二つの遷宮』は、「伊勢と出雲」、「アマテラスとオオクニヌシ」、その関係性を探ってゆく紀行番組です。

旅の舞台は伊勢と出雲、そしてそれを結ぶ重要な鍵を握る奈良。カメラは2つの神話に描かれた古代史の舞台を巡ってゆきます。

E26_img08_2 伊勢神宮に祀られたアマテラスよりも先に全国に影響力を持っていたのが、出雲大社に祀られるオオクニヌシ。これまで対立するものとして捉えられてきた両者は、実は、深い慮りによって共存していたのでは…。2つの神話に登場する現場をじっくり訪ねてゆくと、神話に秘められた古代史の姿が徐々に浮かび上がってきます。

神話と歴史が交錯する古代ロマンの世界に浸っていただきます。

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元旦と2日に紹介された伊勢と出雲の「謎」については、残念ながら見れませんでしたが、それらをうけての完結編? 第三回目の「二つの遷宮」は、しっかりダビングしながら見れました。繰り返し何度も何度も見ています。^^ 面白い!なにが面白いかって?
巻向遺跡から発見された古代建造物建築跡から想像される建物(2棟)が、それぞれ伊勢の神宮の正宮の建築様式、日本古来の「唯一神明造」のモデルであり、国宝である出雲大社本殿とおなじ建築様式であるとのこと。
以前、巻向遺跡についての建物跡が発見されたときのニュース(記事)では、「魏志倭人伝のヒミコの宮殿であるのか?」といったものばかりで、大和地方の遺跡でありながら日本の正史である古事記や日本書紀にそった解説がほとんど見られずちょっと驚いた(あきれた)ことを記憶しています。ブログネタにもしました。
今回のNスペでは、記紀神話の「天孫降臨」や「出雲国譲り」をアニメ仕立てにして!^^ しかも、専門家(学者)、神主(宮司)へのインタビューを交えながらの解説がつけられていました。
原田常治「古代日本正史」史観にどっぷりつかった頭(の私)には、ちょっと物足りない解釈ではありましたが・・・ ^^;
それでも、記紀の記述や神社の歴史とかを完全に無視して、外国の歴史書の記述(邪馬台国畿内説とか九州説とか)ばかりにスポットを当てていた、これまでのマスメディアの態度とは一線を画する内容でGood!!!! ^^
最近、日本を見直す? ような番組を目にします。 クールJAPANってことで、
これまで、あたりまえすぎて気づかなかった「和食」であるとか、
あるいは、公共のインフラである「水道」事業であるとか、
学校教育の場での「給食」であるとか、日本ではあたりまえのことでも
海外からみると、すばらしいサービスであったり、文化であったりするようです。
この 日本の国に関しての歴史、古代史、建国の物語、神話については、
クールJAPANの真打! かもしれない。?
「あれ?この人が(意外にも?)こんなことやっているの?」ってな発見がちょいちょいありました。
一人は、女優の浅野温子さん。「古事記のよみ語り」の活動を独りで(じっくりと?)やり続けているそうで、なんと!國學院大學の客員教授?という肩書きをもってらっしゃる!? 
なんで? ^^;
それにしても、
最近の考古学的な発見を見ずして書き上げられた「古代日本正史」とそれを書き上げた原田常治さんについては、もっともっと注目され、評価されてしかるべきかと思います。
出雲からはなんの考古学的な発見がみられず、出雲神話などはでっち上げのウソ物語として一瞥もされないようなときに、記紀の記述からではない、記紀以前の文献(神社伝承)に着目しながら、日本の建国の物語、スサノオを代表とする出雲勢力と、ヒミコを代表といする九州勢力の出会い、奈良に先駆したニギハヤヒ、etc
はじめてこの本を読んだとき、無我夢中で読みふけったときのことを昨日のことのように思い出すなぁ~~ ^^

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ヤマトの「武」の情景 (11)

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このカテゴリーは、ちょっと久々です^^;

春の本命マラソンの板橋CITYを明日にひかえ、モチベーションはさっぱり上がらず orz

直前3ヶ月が平均して100km前後の練習量では、およそ勝負にならず後半の撃沈は必然? なるようになれモードで? ネットで遊んでいたら、東京新聞の過去記事に面白い記事を発見しました。

「日本の原型を探って 「ヤマトタケル」を描く 安彦良和さん(漫画家)」

新聞社の過去記事のページはあっというまに消去されてしまうので、以下に全文を引用させてもらいました。

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 アニメ「機動戦士ガンダム」のキャラクターPk2013030202100106_size0デザインと作画を手掛けた安彦良和(やすひこよしかず)さん(65)が、日本のヒーロー 像の原型を描く漫画「ヤマトタケル」の執筆に取り組んでいる。隔月刊の漫画誌「サムライエース」(角川書店)に連載中で、単行本の第一巻が二月に刊行された。この作品に懸ける思いは-。埼玉県所沢市の自宅を訪ねた。

 「ヤマトタケル」は、歴史学の上では、実在しない架空の人物だという説が大勢を占める。だが安彦さんは「実在したはず」との立場で、筆を進めている。

 「日本の大昔は神代の話として語られる。最初に神様がいて、それがだんだん人間の話になってくる。グラデーション(段階的変化)なわけですよね。その中で、出雲神話や日向(ひむか)神話は、語られる対象がかなり人っぽくなってきている。昔、授業で暗記した日本史の年表の始まりは西暦三五〇年の大和朝。そのころはもう控えめに見ても歴史に加えていい、神話じゃない時代で、登場する人が限りなく人間の顔に近い。ヤマトタケルもそのころの人で、実在性がかなり濃いと思うんです」

 「ナムジ」「神武」そして「蚤(のみ)の王」と、一九八〇年代から古代日本史の世界を漫画に描き継いできた安彦さん。その推論の土台には、一冊の本がある。原田常治著「古代日本正史」だ。

 「神社の伝承を追い、類推していくと歴史が見えるという、素人さんが出した本。たまたま巡り合い『わっ、面白い』と思ったのが最初です。学問的ではなく、おそらく学者の人は、そんなものはダメだ、と言うと思う。でも専門家が書くものよりずっと面白い。名のある神社は非常に古く、古事記や日本書紀が編さんされる前からある。神社に伝わるものを真剣に扱ってこなかったことこそ、もったいない話だなあ、と」

 「ナムジ」などに続き、古代日本を舞台にした「ヤマトタケル」で探求するのは日本のヒーロー、そして国そのものの原型だ。

 「日本の国の成り立ちは今も、世のあり方や外交に密接に関係している。建国記念日にはその歴史認識が問われ、近隣の韓国や中国と絶えずもめている。つい七十年ほど前は『神の国』を錦の御旗に大戦争もした。神代の話、古代史に今なお振り回されながら、年表を開いても西暦三五〇年の前はほとんど白いまま。おかしな国だなあ、と。なぜ、いつまでも空白なのか。本当はどうなのか、積極的に明らかにしなくてはいけないはずなのに」

 国の原型の探求は、思想を超えた目線で、過去の歴史に向き合う試みでもある。「例えば神武天皇に当たる人は実在した、東征神話はかなり本当に近い、と言うと普通、思想的には右翼ですよね。それが紀元前六〇〇年代じゃなくて、紀元後二〇〇年ごろで実際はこんな人だったんじゃないかと言うと、それは右でも左でもない、人間の視点です。どうしてそういうアプローチができないか。ガチガチになったものを解きほぐすのは案外、われわれ素人の素朴な疑問かもしれません」

 アニメ「機動戦士ガンダム」の世界を再構築した漫画「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」を二〇一一年、十年がかりで完結させた。「もう年も年なので、『ヤマトタケル』はそんなに長くはしないつもりです。半分は神の世界の時代を描いた『ナムジ』より、作品世界を鮮明にしなきゃいけない。プレッシャーはあるんだけど、一つでもこれは本当かも、という場面を出せたらいいなと思っています」 (岩岡千景)

~~

漫画家の安彦さんが、原田常治さんの古代日本正史の影響をうけて(歴史観で)古代を舞台にして作品を描かれていることについてはネットで知っていました。

ただネットの書き込みによると、原田さんの古代日本正史が(ネットで)トンデモ本として扱われているのを知り、作品を描かれなくなった?(描く気が失せた?)

そのようなことが書かれていましたので、ちょっと残念な気がしていました。

今日、この記事(本人談話)を読んで、原田常治さんの古代日本正史の魅力、そして日本の古代史についての史学界の態度に対する素朴な疑問などなどを読んで、まったく同感で、拍手喝采です。^^

ヤマトタケル! 期待されます。

従来の歴史観(勝者の歴史観、藤原氏、藤原不比等によって粉飾された)古事記、日本書紀の記述に惑わされず(制約を受けず)、行間を読み、抹殺された史実を大胆に推論したダイナミックな歴史観で ヤマトタケルを蘇えらせてくださることを心待ちにしております! ^^

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日本の米(環境と文化はかく作られた) 富山和子著

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#写真はGoogleMapで表示させた秩父市の太田条里(古代の条里制の名残を残す水田)#

この2年越しのマイブームといえば、日本の古代史、記紀が書かれるまえの(記紀で扱われる時代の)神話として扱われるような時代のこと。その中でもヤマトタケる(ヤマトの「武」)について探求(妄想?^^;)しています。

ごく最近の関心事、マイブームといえば古墳です。

古墳とは何か
古墳が突然に全国的につくられるようになった背景は何か
古墳の意義は

古墳時代、大和朝廷がその版図を拡大していく時代とはどんな時代なのか。
あるいは、それ以前の倭国の盟主ら(スサノオ、ニギハヤヒ、タケミナカタ?)たちが諸国へ出向いて農業、とりわけ稲作を指導したり、市場を開いて産業を振興した時代(弥生後期?)はどのような状況だったのか。

ヤマトタケるの東国の遠征については、記紀の中では血なまぐさい戦いの記述は無くて、各地の神社に残っている記録でも、戦いの記事というよりも村人から大歓迎されているような様子が書かれていたりで、遠征とは言いながらもその実態は農業指導、産業振興、治水灌漑工事指導に重点が置かれていたのではなかったかと考えています。

時代的には古墳時代であり、その時代の記念碑ともいうべき、圧倒的な存在感の大きな古墳を訪ねてみたり、考古学の本(雑誌)を読んだり、自分なりにいろいろ考えて楽しんでいます。

本記事のタイトル、「日本の米(環境と文化はかく作られた)」については、図書館で何気なく手にした富山和子さんの書かれた1993年初版の中公新書の本です。

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漠然とイメージを膨らませつつあった上の事柄についての、まるで学校の先生が生徒に教えるがごとく? 小中学生に戻って社会の授業でも受けているような気がしました。 (富山和子さん、児童向けにやさしくこの種の本を何冊も書かれています。^^;)

・米、稲という驚くべき恵みの食物の特性について
・水稲農業の普及にともなう国土の大変革、治水、利水の技術の普及について
・古墳の構築技術と米作りのための治水土木技術の共通性

面白く、判りやすいです。

先日、NHKスペシャルを見ての自分なりに大発見をしたように感じたこと、「お米は貨幣だった!」についても、そんなことは当たり前のこと?サラリか書かれておりました。 

とりわけ第2章は、現在のマイブームど真ん中! 「米の文化、古墳」でした。すこし引用します。


私たちは忘れがちだが、畑と水田とは違う。それはもう、根本的に違うといってよい。技術の上でも違うし、それに伴い、社会経済の体制づくりの上でも違ってくる。当然ながらそれは、人間性や社会の体質にまで影響を及ぼさずにはおかない。
水田の場合、まず、水をどこからか引いて来なければならない。水源を探し、川を堰き止め、水路を築く必要になる。
一方、農地についても大工事が必要である。木竹を払い、石を除き、土地を平らにしなければならない。畑地ならば斜面であっても、ソバでも麦でも撒くことはできよう。だが、水を張るのである。水田の底は平らでなければならないし、周りにはしっかりと畦を築いて、水が逃げ出さぬようにしなければならない。

 ・・・中略・・・

このような水の事業は、どれ一つを取っても、とうてい個人ではできないことであった。こうして、共同作業が開始される。水を通して人と人とが結ばれ、水を通して人と大地とがしっかりと結ばれる社会。

 ・・・中略・・・

このように、米を作るということは、水を使うということであり、水を使うには第一に技術が要り、第二に共同作業が、そして第三に人口が必要であった。「一粒万倍」のその稲は、この人口の要求にもよく応えた。大量の水を確保できるようになればそれだけ収穫は安定し、農地は拡大し、生産力が上がり、それは人口の増大を約束してくれる。人口の増大は、より大規模な水田の開発を可能にさせ、それはさらに人口の増大を促すことになった。


 ・・・中略・・・


すでに二世紀には、西日本では、開発できる川はほどんど開発されつくされていたと見られ、あとは次のステップ、溜池の建設による水資源開発を待つしかない状態であった。が、そんな歴史の消長を経て各地に部族国家の小連合ができ、やがて国が統一されるまで、国土改造の大事業はつづくのである。いや、溜池を作り水田を開くその大事業が、国の統一を促したというべきかも知れない。そうした国土大改造事業の華やかなシンボルが古墳であり、その仕上げの作業が、条里制であった。


 ・・・中略・・・

日本列島に二十万基も横たわるという古墳。古墳を見て、あなたはそれが米の文化の産物であることを思い浮かべるであろうか。あるいは子供たちが学校で郷土の歴史を学ぶとき、古墳と自分たちが毎日食べている米と、そして今まさに政治、経済、社会の焦眉の急である米問題とを少しでも関連させながら、教えられるであろうか。


(p35~p40より抜粋)
 

第三章以降についても大変示唆に富む内容が満載されています。(まだ読んでいませんが^^;)

原田常治さんが、その著書「古代日本正史」のなかで、歴史(古代史)を探求するアプローチの幾つか、考古学的なアプローチ、文献研究的なアプローチ、古代主要氏族の系図調査によるアプローチ、神社の縁起研究からのアプローチ、など様々なアプローチの方法について具体的に上げて説明されていたように思いますが、自然の地形(山とか川とか平野とか)を考察することの重要さについても指摘されていたように思います。
考古学嫌いの原田さんの結論は、考古学は沢山のアプローチの中のひとつに過ぎない、歴史を研究するには複眼的な思考、考察ができることが重要である・・だったかな?^^)

古墳の意義について、稲作農業、治水土木の方面からの考察について、感嘆させられました。

名著です。

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